夢とは長期的展望を持って快を追求する行為である。
これを出発点として考えると、短期的不快を受容して、長期的な大きな快を追求することである。当たり前のことだが、意識としては、受容した短期的不快の総量を長期的快は超えていなければならない。出なければ不快を受容する意味がない。
夢がない場合の行動を考えると、短期的快の選択の連続になる。とにかく目の前の快を選択し続ける。10年の長さで考えると、目の前にある小さな快が積みあがったことになる。
夢がある場合の行動を考えると、目の前の小さな不快を受容しながら、10年後に大きな快を達成することになる。
さて、快と不快を相殺した後の快のプラス分はどちらが大きいのだろうか。行動経済学では、長期的に見れば総量の快が小さくなったとしても、人は目の前の快を選択してしまう、と証明されている。
夢を達成した人が、達成したことによる快より、受容してきた不快のほうが大きかったので、夢を達成したことを後悔している、という話を聞いたことがない。もちろんたとえ心の片隅でそう思っていたとしても、心理的に受容できないだろうが。
はなはだ根拠薄弱だが、以上のことから短期的快の積み重ねより、夢を持ったほうが、快の総量が多くなると思う。
夢を持つと、快の総量は増えるし、夢を達成できるし(それが快の一部をなす)、毎日が生き生きするし、良いことづくめである。
夢を持たない理由がないと思う。
追記
夢を持った場合、目の前の不快を受容しなければならない、と書いたが、それは心の持ち方次第である。今のこの試練を乗り越えていけば、どんどん夢に近づいてくる、と思えば、それは不快ではなく、楽しみになる。
私は今、西アフリカ旅行のための旅費を稼ぐために、アルバイトをしているが、アルバイトをしているとき、これでどんどん西アフリカに近づいている、と思うと、楽しくて仕方がない。