imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

芸術作品からの学び 学問からの学び 習得方法の違い 2023年9月

学問は論理によって組み立てられている。故に、学問を習得するには理性が必要である。既知の知識を足場にして、論理的に未知の知識を延伸する。例えば足し算を足場にして、掛け算を習得する。一次方程式を足場にして、二次方程式を習得する。

当たり前だが、学問を習得するとき、習得しようとする未知の領域は予測済みである。二次方程式を習得しようとして、生物学を習得してしまったということは起こらない。

 

芸術作品を鑑賞した時、何かを感じることがある。もし芸術作品から何かを習得するときは、以下の行程をたどると思う。

作品に接して情報が入力される。無意識の中で反応が起こる。情動が立ち上がる。その情動が何故立ち上がったのかを理性的に分析・思考する。抑圧されていたものが意識化される。それを足場として日常生活に適応する。日常生活で新しい世界が見える。

 

芸術作品の、学問を習得するときとの違いは、入り口で理性を使わないこと、何を獲得するか予測が出来ないことだ。

 

しかも芸術作品に接したとき、情動が立ち上がらないこともある。つまりそれでお終いである。その作品は今の私にとって意味が無かったことになる。

 

では情動が立ち上がりやすい心、言い換えれば感動しやすい心はどうすれば手に入るのか。

 

1 芸術作品の中でも具体性の高いもの、つまり映画、文学、歌詞付き音楽は、そのほとんどの対象が人間だ。その場合、情動を刺激するのは共感である。例えば主人公に共感する。共感は相手の中に自分を見る行為である。その為には、相手も自分と同じである、という実感が必要である。その実感を手に入れるためには、共同身体性の獲得が必要である。自然に立ち上がる共同身体性を手に入れるためには、子供の頃の一体感を感じる体験・遊びが大切である。イメージで言うと、友達と遠出をして迷子になったり、どろんこ遊びをしたり。

共感は、しようとしてするものではなく、自然にしてしまうものである。それが本来の共感の姿だ。

 

2 芸術作品の中でも抽象性の高いもの、つまり歌詞の無い音楽、絵画は、どうすれば情動が立ち上がるのか私には良く分からない。

以下は予想である。

音楽や絵画は構えて鑑賞すると空振りになる。言い換えると理性的に処理しようとすると失敗する。つまり意識ではなく無意識が大切なのだ。意識の力を弱めて意味を取り払い、無意識を活性化させる。そういう態度を身に付ける。

問題はどうすればそれが出来るかである。

私見によれば、絶対的に安全な空間を作って、その中で外界を全的に受け入れることが大切だと思う。その為には、

1)自分の居場所が安全と感じる必要がある。である為には、子供の頃に大人から侵害されないことが決定的に大切である。安全であることを感じられるから、外に向かって心を開くことが出来る。

芸術を創作するときはこれは不必要だが、鑑賞するときは不可欠である。

 

2)圧倒的なものに触れた経験が必要だと思う。圧倒的なものに触れて、世の中には自分ではどうすることもできないものがある、ということを肌で知る必要があると思う。多くの場合、それを感じる対象は自然になるだろう。

 

以上のような経験をしたほうが、抽象作品に接した時、情動が立ち上がり易いと思う。