imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

身体と記憶 身体を使うことと記憶の関係

身体を使わないで獲得した記憶は定着するか。

 

身体を使えば、五感を使ってものごとを認識することになる。つまり臨場感が湧く。臨場感が湧けば、記憶に残りやすい。

私の言い方をすれば、感情が添付されなければ、ものごとを記憶できない。臨場感とは感情の別の表現である。身体を使えば感情が生じるから、記憶される。

 

つまり身体を使えば、ものごとに臨場感が湧き、臨場感が湧けば感情がそれに添付される。感情が添付されれば、記憶される。感情はタグみたいなものである。それを使って記憶を呼び起こす。

 

つまり身体を使うとは、記憶することだと思う。

故に最初の問いかけ、身体を使わないで獲得した記憶は定着するか、の私の基本的答えは否、である。なぜ基本的かと言えば、イメージの中で身体を使えば、実際に使ったのと同じ効果があるので、その場合も記憶されるからだ。

 

身体とは外界との接点である。その意味するところは、

外界に働きかけ、変化させることによって外界からの反応を受け取り快・不快が生じてしまう、ということだ。その快・不快が出発点となって、複雑な感情を作り出していく。

首を動かせば見える角度が変わっていく。手を動かせば触れた物によって触覚が変化する。これらすべてが外界の変化である。

 

別の言い方をすれば、身体が無ければ、快・不快はなく、感情は生じないと思う。

なので、脳を純粋培養している場面を漫画で見かけるのだが、もし脳を純粋培養すると、感情のない世界を生きることになると思う。ちょっと想像がつかないけれど。

 

人間どうしの関係にも快・不快が生じるが、これは侵害感や受容感が基礎になっていて、そもそもそれは皮膚感覚からきていると思う。