ガイド本なしの旅行 モバイルなしの旅行

三十年ほど前、地球の歩き方を持たないことを自慢する旅行者がいた。旅行者から直接聞くのだと。それを聞いた私は、どちらも旅行者情報で、出どころは同じじゃないか、と思っていた。

数年前に旅行をしたとき、モバイルを持たない旅行者に出会った。私にはとてもできないと、素直に評価した。

 

インターネットが普及する前の安宿の共用空間は、旅行者の情報交換の場として必要不可欠だった。目的は情報交換でも、結果として一緒に食事に行ったり、しばらく一緒に旅行したり、仲良くなったりした。ネットが無かったときは、旅行者同士挨拶するのが当たり前で、話すのが当たり前だった。人との出会いが当たり前だった。

しかしすべての情報がネットから入手できるようになると、共用空間から人の姿は消え、皆ベッドに寝転んで、音楽を聴いたり、SNSにふけるようになった。人と話す必然性がなくなり、実際人と話さなくなっていったのだ。

 

無くなって初めてその大切さが私には分かった。三十年前に、地球の歩き方を持たないで旅行することは、意義のあることだったと今は思う。

数年前トルコの地方都市を歩いていた時、ザックを背負った旅行者から声をかけられた。近くにホテルはないか、と。彼はモバイルを持っていなかった。人に聞かなければ、宿にさえ辿り着けないのだ。彼の旅行は人と喋りまくってると思う。そうしなければ旅行が継続できないからだ。重い荷物を背負ってあちこち人に聞きながら初めての街を歩くのはとても消耗するだろう。そしてその見返りに、彼は多くの忘れがたい経験をしていると思う。

 

先進国ではグローバル化のために共同体が解体し、個人が孤立して不安を抱えている。そのことが、旅行者の行動にも影響を与えてると思う。安宿で他の旅行者に不必要に声をかけることをためらわせているのだ。なぜなら傷付くことが怖いからだ。

この不安とネットの普及が、旅行者を自分の殻に閉じ込めていると思う。

 

今後ネットが無くなったり、従来の共同体が再生する可能性はゼロなので、事態はより孤立する方向にしか進まない。

 

三十年前、国内の同調圧力を嫌って貧乏旅行に出た旅行者が、旅行先の安宿で集団を作って同調圧力を駆使する場面をよく見た。

今、国内の孤立感を嫌って人情味のある途上国を旅行者は目指すのだけど、滞在先の宿では自ら進んで孤立してしまう。