imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

共同体 1 共感

理由は分からないけど、一緒にいると嫌な気分にさせる人がいる。腹が立つ人がいる。

いじめっ子がいじめられっ子を過剰にいじめてしまうのは何故だろう。

例えばのろまな人がいる。一緒にいて別に自分に害を与えるわけではないのに、”こいつ、のろまな奴だなぁ”と思う。急かされるような場面で(例えばレジ)相変わらすゆっくりしていると、横で見てて腹が立ってくる。何故か。

それはのろまな人の中に自分を見てるからだ。具体的に言うと、以下の感情が働いている。

自分はのろまだと思われたくないために普段から一生懸命に努力して、焦りながらも迅速に動いているのに、こいつはなんでそれを隠そうともしないのだ。実はもしかして俺は本当はのろまじゃないかと恐れているので、それを他人に悟られないようにこんなに努力しているのに、こいつはどういうつもりだ。

この感情の動きを別の言葉で言うと、認めたくない自分を相手の中に見つけて、その自分を過剰に攻撃している。否定的自分を相手に投影して相手を否定している。否定的な自分を見ているので、過剰に感情的になってしまうのです。いじめが歯止めを失いがちなのは、見たくない自分を相手の中に見つけ、その否定的な自分を攻撃しているので、過剰に攻撃的になってしまうのです。許せない自分を相手の中に見て、相手を許せなくなる。

ここにすぐにビビる奴がいる。一緒にいて別に自分に迷惑を掛けるわけではない。だけど何かあるとすぐに怯えた顔をするのを見ると何故だか腹が立ってくる。何故か。

自分は臆病者だと思われたくないために、常日頃から何事にも動じない顔をして振る舞っているのに、いや実は自分はもしかしたら臆病者かも知れないと思っているからこそ、いかにも豪胆に、尊大に、俺はいっぱしの男ですよ、っと言う顔を無理やり演出しているのに、こいつは何でこんなに情けない顔を公衆に曝せるのだ。みっともない奴だ。

ここにもこんな力が働いている。自分の中にある、臆病者と言う認めたくないものを、他人の中に見つけて過剰に反応しているのだ。見たくない自分を相手の中に見て過剰反応。そんな情けない姿、見たくもないぞ、と。

ここに真面目な奴がいる。一緒にいて迷惑を掛けるわけではもちろんない。だけど側でそいつを見ていると何となくイライラしてくるのだ。

ここにはどんな回路が働いているのか。実は俺は真面目な奴だと気づいているので、周りから真面目な奴、とバカにされないように、ふざけた奴、面白い奴、悪い奴、を努力して演じている。ところがこいつは周りでバカにされようと、女の子に”あんた、真面目ねぇ”って言われようとお構いなしに黙々と真面目を通している。見たくない自分を相手の中に見て、過剰反応。何とか見ないようにしている自分の一面を相手の中に見る。平静ではいられない。

もっとも投影しやすい否定的な自分は、優柔不断な自分や、怠け者の自分、自信のない自分などだろう。

ここに一生懸命にサッカーの練習をしている若者がいる。その若者を見ていると一生懸命さが伝わってくる。なぜか大切な気持ちが湧いてくる。

ここでの構造はどうなっているか。私たちはこの若者の中に、かっての一生懸命だった自分を見ている。若者の中に一生懸命だった自分を見て、その自分を大切に感じる。その事を通して一生懸命な若者を大切だと感じるのだ。かっての自分を相手の中に見て、相手をまるで自分の一部のように感じる。相手の向こう側にいる自分を大切にすることによって、相手を大切にできる。

ここにとても悲しそうに泣いてる人がいる。なぜかこちらまで悲しくなってきて、その人を慰めたくなってくる。

ここでは泣いてる人の向こうに、かっての悲しくて泣いてた自分を見ている。その泣いてる自分に対して、心から慰めてあげたいと思う。その事を通して、目の前で泣いてる人を心から慰めたいと思うし、大切に思うのだ。

ここに無心で積み木遊びをしている小さな子供がいる。何故だかとっても大切にしてあげたい気持ちが湧いてくる。

何故か。この無心で一生懸命な子供の向こうに、かっての無垢な自分を見るからだ。まだ穢れも、人を憎むことも、恨むことも知らなかった無垢な自分をとっても大切なものと思う。その事を通して、いま目の前で無心で遊んでいる子供をとっても大切だと感じるのだ。

否定的感情の逆の例をあげるとこうなる。自分のことを全くのろまだと思ってない人や、のろまであることを何とも思ってない人は、のろまを見ても過剰に反応しないだろう。過剰反応する理由がない。ああ、のろまだな、と思うだけだ。同じように、自分のことを臆病とか真面目だと全く思ってない人や、臆病であることや真面目であることに何の引け目も感じていない人も過剰反応しないだろう。

ではどう反応するのか。

例えば臆病であることに何の引け目も感じてない人が、臆病者を見たら、その向こうに自分の気持ちに正直に生きてきた自分を見るだろう。その自分を大切に思う、そのことを通して、相手を大切に感じるのだ。

ここで注意しておかなければならないのは、この例からも分かるように、相手の中に見える自分はこちら次第と言うことだ。こちら次第で同じ相手にたいして全く違う感情が引き出される。こちらの状態が、相手の中に見える自分を決定し、相手への感情も決定する。

以上、私たちは、肯定的や否定的な自分を相手の中に見てしまうことによって、その相手に肯定的感情や否定的感情を抱いてしまう。

私たちは、相手の中に常に自分を見ようとするのだ。