先日娘が珍しく熱を出した。抗原検査を二度したが、どちらも陰性だったので安心したが、100年前にスペイン風邪が流行して、抗原検査が無かった当時は、感染の有無を確認するのが大変だったろう。
19世紀後半まで、感染症の原因が微生物だとは確認されていなかった。コッホが1876年に炭そ菌が原因で動物が発病することを突き止めた。1882年に初めて結核菌を発見して、人の病気の原因に細菌が関わっていることを突き止めた。
当時はまだウイルスの存在が知られておらず、故に野口英雄は黄熱病の細菌を探してるときに黄熱病のウイルスに感染して死んでいる。
つまりそれ以前の人は、どうも感染するようだ、とは気づきながら、その原因が分からなかったのである。
それは以下のことを意味する。
感染症とそれ以外の病気の区別がつかない、と言うことだ。
症状に特徴があり、感染から発症までの期間が短ければ、うつった、と言うことがはっきりと意識される。例えば麻疹や水疱瘡、コレラは、その特徴的な症状と瞬く間に周囲の人に拡がるので、うつった、と言うことが分かる。
しかし症状に目立つ特徴がなかったり、潜伏期間が長いと、うつっているのかもしれない、くらいの認識になるだろう。
逆に言えば、ある家庭で、数年のうちに何人かが続けて心筋梗塞で死ねば、うつる可能性を考えてしまっただろう。
そもそもある困った症状が出た時に、原因が分からなければ、それが病気かどうかも分からなかっただろう。
今では心筋梗塞が心臓の血管のつまりによって起こることをみんなが知っているが、原因が分からなければ、その激しい苦しみから、祟り(たたり)の可能性も考えただろう。
もし祟りと考えれば、その原因はまずはその人の過去の行為に帰属させられるだろう。あの人はあんなことをしたから、ああなった、と噂されるだろう。更には祖先が原因と考えても不思議はない。何しろ原因が分からないのだから、何でもありになってしまう。まさにカオスである。
考えるだに、恐ろしい状況である。
現代でも、科学がすべてを解き明かしているわけではない。私たちが信じているものの中には、かっての祟りに相当するものが混じりこんでいるはずである。
当時の人すべてが祟りを信じていたわけではないだろう。ある程度は理性的に弁別できた人もいたはずである。
よく分からないこと、理解不能なことに、考えることを放棄しないで、少しでも考えようと努力することは、心筋梗塞にならないために祈祷師を呼ばないで済む、大切な行為だと思う。
余談
◎感染症の原因が分からなかったときは、困った症状が出た時に、とりあえずうつるかも知れない、という心構えがあったろうと思う。恐ろしい症状の病気が発症すれば、とりあえず近づかなかっただろう。
それが拡大して、嫌なものはうつる、と言うことになったと思う。私が子供の頃は、不潔なことをしたり、バカなことをすると、うつる、と囃し立てられて、結界を切られたものだ。しかし最近はそのようなことを少なくとも私は聞かなくなった。
ひとつには差別禁止の教育のおかげ、ひとつには感染症が特定されてきたおかげだと思う。
うつるのは、一部の細菌とウイルスと原生動物だけである。
◎どれだけ時代が進んでもすべてのことが解明される、と言うことは無いだろう。例えると、ひとつのことが分かると、3つの謎が新たに生まれる。
カオスになっている部分が必ずあるのだ。例えばファンタジーはカオスのプラスの価値だと思う。カオスにはウキウキするような物語を作ることが出来ると思う。