imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

キューバ5月

blog用にわざわざ書く時間が惜しい(時間があればスペイン語の勉強をしたい)ので、日記を転載します。読みにくければ飛ばしてください。

22日 木曜 13時発キューバ ハバナへ 空港で洗濯石鹸を没収。時差が一時間早いので3時にハバナ着。一種憧れの国に降り立ち、空港を出て、人々と景色を見て感動。バスに乗る。表情は特別なんとも感じない。むしろ運転してる人たちがイライラしてるのがわかる。無闇にクラクションを鳴らしてる。7時セントロ着。九階の宿から外を見て景色の良さに感動。さっそく荷物を置いて街に出る。道に人が溢れている。移動しているのではなく、家の前でおしゃべりついでに涼んでいる。道端も二階のベランダも。町じゅう人の声でざわざわしている。みんな生き生きしてる。自分達が無くして苦労しているものがここにはあると思った。胸が一杯になった。あちこちで小さな商売をしている。どれも3から10ペソぐらい。飲物は1ペソ。1ペソ5円。注文しても少しも慌てない。人と話し続けてる。一発で気に入った。このままハバナだけで1ヶ月でも良い。ウキウキしながら歩いた。食事時にメキシコでは付き物の口や手を拭くための紙ナプキンがない。立ち食いの為の、ハンバーガーやピザをつかむ紙はあるが。宿代10クック 1クック100円

23日 金曜 近くに中華街があることもあって、よく中国人に間違われる。公営商店は方法も中国と同じで、カウンターの奥にあって、手で触れない。。やる気のない店員が一人いて、客が群がってる状態。ただ自営商店も愛想は悪いし、てきぱきもしていない。売る気を感じさせない。外国人旅行者に群がる人たちはあれほどやる気があるのに。

タバコの回しのみをよく見る。夜はあちこちで若者が酔って騒いでいる。親父も酔っている。ただ部屋が暑いので外で飲むので目立つと言うのもあるだろう。

すれ違うときの距離がメキシコ人より近い。女の人も。女は運動神経に自信が有りそうな人が多い。

アジア系をあまり見慣れてないのか、眼で追う人が多い。メリダもそうだった。それに”チノ”と小バカにしたように呼び掛けられることも多い。ただ小バカにしてると感じるのは私のチノへの偏見の可能性も高い。

今日は相手にされないことも感じてちょっとバドってる。

24日 土曜 

イグレシア デ サンフランシスコが、要塞化した権力者の家っぽくて良かった。

sol通りを使って戻る。市場やパン屋や大市場があって良い通りだ。えらくうまいアロス屋(焼き飯とか白飯)も見つけた。グアバ1個3ペソを買う。実は赤かった。メキシコよりずっと大きい。果物は1個何ペソで売るのが多い。赤はあったが黄色いマンゴーは無かった。一度戻って帽子をかぶって中央駅に。小さな、しかし待合室にいすがたくさん並んだ駅だった。帰りは喉が渇いたので、いろいろ飲みながら帰った。冷えたサトウキビ液が、メキシコのように青臭さもなく旨かった。通りに人が多い。近所の人がぶらぶら出歩いてる感じ。家の前で座ってるおばさんも多い。とにかく街がざわざわしている。

昨日はつれなくされて少しテンションが落ちたが今日は気分が良かった。結局こちらの心積もり次第だ。

アロスを入れる容器は大抵使い捨ての紙の折り詰め。パンのサンドイッチは紙ナプキン1枚。スピリッツは、ビン持ち込みが多い。買い物袋は店が用意するビニール袋が多い。

土曜の夜なのに海岸に屋台はなく、夕涼みのアベックや友達たちが防波堤に座ってお喋りしていた。振り返れば屋台は見たことがない。木箱を持って売る人はいる。夜の街は暗いので、がたいの良い男が多いので群れていると何となく怖い。

RVだと新車でトヨタのハイラックスを良く見かける。普通車の新車だとヒュンダイ、起亜が多い。ヴィンテージカーだとシボレーが多い。が排ガスがひどい。飛行機で上空から見たとき、田舎の道に車はほとんど走ってなかった。

25日

朝セントラルパークで座っているとき、黄色いマメの花が落ちて人に踏まれ汁が出てた。そこにハエがたっかって縄張り争いをしてた。

26日 月曜 郵便局に荷物を送る。案内所で聞いた情報も、案内所が出してる地図も間違ってた。郵便局で教えて貰った情報が正解だった。目茶苦茶歩いた。が、たどり着き、あっけない程簡単に終わった。2キロ程で59ペソ。ずっとしたかったことがようやく終わった。市場ではビニール袋が1ペソだった。立ち食い屋のプラスチックのさじも1ペソとるところがある。

marielの行き方も分かった。

27日 火曜 いつもアロスを食べに行くフラタニダ公園南のアロス屋でパンを食べたが旨かった。15ペソ。ピクルスなど入れて工夫してる。

植物園に行こうとしたが、案内所で聞いたバス停無し。途中まで行って戻ってくる。カンカン照りで、消耗した。近くまで行ってたのだが。

夕食はDON LUCAへ。骨付きロースハムソテー。厚みがあった。40ペソ。

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ジュリアナにも行ったが80ペソ辺り。質が良いのか、量が多いのか。人が多くて落ち着かなさそう。

男も女もよくタバコを吸う。室内禁煙は無い。 必要なときは人目を全く気にせず大声で話せる。男女とも。どっからこんな大声が出るんだろうと思う。 バスは弱者優先に座ってる。たまに若い男も座っているが。席を譲ると言うよりは空いてても座らない。ヴィンテージカーが走っているようだが、新車以外どれも排ガスがひどい。もう少し豊かになって車が増えたら社会問題になるだろう。って十分セントラルは酷いけど。  行列は日常風景で、役所、電話会社、両替屋。カンカン照りの中を並んでいる。きちんと並んでなくて、自分の前の人を覚えていて、列から外れて立っている。番が近くなると列に戻る。だからあとどれくらいで自分の番か分かりづらい。  配給があるようでお通い帳みたいなのを持ってパン屋や卵屋で買っている。ミンチや肉も。卵を20、30とまとめて買っている人をよく見かける。  社会主義国でないカリブの国の社会を見てみたい。もっと勢いがあるんだろうか。キューバって十分開放的な気がするんだけど。  手や足の無い人を他国より多く見かける。物ごいしてる人も多い。義足は見たことがない。  ゴミ指定場所にどんどんゴミを捨てて生ゴミが周りに散乱してるけど、清掃人が多いので街は比較的きれいだ。小さなゴミはぽい捨てだが。メキシコとよく似ている。

ここ数日このマンションだけなのか午後から数時間断水があった。

28日 水曜 9時半に宿を出てバスで小一時間、さらに乗り合いタクシーで小一時間、30ペソでmarielに。少し歩いて海に出た。小さな公園があったのでカサ デ レントがあるかとおじさんに訊くと隣のベンチに座ってお喋りしていたおばさんに声を掛けた。何と宿があった。一泊20クックと言われたが全ての食事付きで18にして貰った。いつもの政府公認のマークは出ておらず、赤のマークで描かれていた。一軒家を貸し切り。そりゃ高いだろ。アラセリおばは値切るとテンション上がってまくし立てるが、ふだんは親切だ。

大型テレビサムスンもDVDプレイヤーLGも冷蔵庫も冷房も温水シャワーもある。夕食を母屋で食べる。フリホレスが少しピカンテで美味しい。ポリョフリート唐揚げ グランデ。そのあとベランダでゆっくり。

家の下が既に海。ポンポンゴミを投げ捨ててる。入江は煙もくもくの工場やコンテナ埠頭(フランス企業が運営していたが、アメリカの孤立政策でフランス企業が撤退し、今は中国企業が運営しているそうだ)で、中国人やベネズエラ人が沢山いるらしい。

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ヌカカの3分の1程の小さなヌカカが朝夕出没して悩まされた。小さいので飛んでるときはなかなか見えない。かなり小さい口吻に違いないがちゃんと刺せるので驚く。目の前の汽水域で発生するそうだ。そしてハマダラカの仲間が1種。

今日は予想以上に上手く展開した。

29日 木曜 停電がある。昨日も、そして今日は12時に帰った時はすでに停電で4時に戻った。停電はある意味平等だ。この家には小さな冷房や電熱線利用のシャワーがあるけど、それも使えない。工場は操業してるんだろうけど。 

小型のエスプレッソマシーンが家にあったので、コーヒー豆が何処に売ってるか訊くと、500G程で5クックもすると言ってた。コーヒーも高級品なのだ。(あとでわかったが、安いのもあった。)

きょう朝食でコーヒーを出してくれるとき、ミルクを入れるのか入れないのか、コーヒーとは別々で飲むのか、ママアラセッリとパパアルフレッドが私をはさんで大声であれやこれやとやり取りをした。これに限らず何でも喧嘩のように声を枯らして語気強くやり取りする。

この家の皆がヘビースモーカーだ。パパ、ママ、グランマ。私がいる朝と夜の数時間だけでも一箱近く吸っている。虫除けのつもりもあるだろうが。大声でやりあって,イライラしてつい手が伸びてしまうように見える。海風が強いこともあってライターになかなか火が点かなくてさらにイライラしているように見える。

心に余裕が出来たのだろう、キューバに来たからハバナクラブを飲もうという気持ちになって、7年ものの小瓶を買った。350ミリリットルで6、75クック。機内持ち込み出来ないのでカンクンに戻るまでに飲まなくては。 メキシコに帰ったらテキーラを買おう。

市場の果物屋を覗いたが、バナナとパインとグアバぐらいしかなかった。マンゴーもパパイヤも無かった。(個人屋台ではよく見かけた)マンゴーはあちこちの家で実ってるので売れないのかも知れない。ハバナでも感じたが、果物だけでなく野菜の種類も少ない。

ハバナに比べて街はとてもきれい。野原にはビニールゴミが投げ捨てられているけど、町中でゴミを見かけない。生ゴミの悪臭もない。ただ排水が良くないのだろう、時々どぶの臭いがする。

大音響のテレビや音楽も十時頃には静かになる。

初めて墓地に行ったが、ほぼ全ての石棺に十字架が記されていた。教会はショボいし、前を通りかかってもメキシコのように十字を切る人も見かけないが。メキシコと同じように墓地は町外れにあった。              

30日 金曜 フリホレス用の豆(小豆にすごく似ているが、たぶんインゲン豆)の選別をグランマがしていた。変色してるのと異物(主に石)を時間をかけて丁寧に取り除いてた。米も同じことをしてるのだろうか。してなかった。

今日は午後四時頃から7時20分まで停電。いつも行く店で軒並み客の注文を断っていた。電気オーブンでピザが焼けないのだ。ハンバーガーはミンチをガスコンロで焼くので受け付ける。最後に熱い電気ゴテで上下からプレスをかけれないが。

ルフレッドは1988年に医師としてニカラグアに26才の

時に2年、2001年からはガンビアに2年いてたそうだ。そのとき使ってたパソコンがいま家にある。ウインドウズXPだそうだ。

フェリックス40才の家に夜の10時半に行った。大通りの店の前で甘いものを売っている。夜は英語を高校で教えているそうだ。昼間、お店で話してる間、ひっきりなしに通行人から声が掛かる。大声で快活に声を掛け返す。が、夜会うと人が変わったみたいに落ち着いて静かだった。一人の時はリラックスしていると言ってた。甘いものは工場で仕入れていて、自分では作っていない。あの店は私営じゃないんだ、と言った。家では、友達に録って貰った、アメリカ在住のキューバ人向けにマイアミで作られたテレビ番組を見ている。11時半に帰った。大通りにはまだ若者やアベックがたむろしてた。

31日 土曜 朝のミルクをなぜ温めてるのかと思っていたが、粉ミルクを溶いていた。朝食用のパンは私が来てからいつもグランマが買いに行ってた。

ルフレッドと次男のアルフレディトの言い争いをしてるときのしゃべり方は少し投げやりな感じがする。たぶん次男は15才なので相手を少し威圧してるような気がする。アルフレッドはそんなことも分からないのか、と言う感じ。

町ですれ違う人が、ちょっと脅迫的に挨拶を交わすのは何故だろう。初めは人との距離が近いからと思っていたが、挨拶しようとしている相手が別の人とお喋りしてようと、車で知人の家の前を通るとき、相手の反応など関係なくただクラクションを鳴らして窓から手を出して振ってたり、答えるほうも車が行ってしまってるのに大声で返事してたり、絶対に見れないでしょと思えても、運転手に手を振っているのを見ると、外での快活な挨拶は過剰に繋がりを求めているようにも思える。何故。1 人との繋がりの強さを自ら感じたい、つまり繋がってることを強く感じて安心したい。つまり不安の強い社会。つまり共同体社会が脆弱になっている。なぜなら1)政策が原因。2)近代化が原因。2 または他人に示したい。つまり他者に認めさせることによって自分の社会的地位を高めたい。つまり不安な自分がある。つまり共同体社会が脆弱。意外だったのは、多くの人がクックを持っていることだ。1988年の中国では、ごく一部の人しか特権通貨を持ってなかった。が、キューバのクックは多少は別にしてほぼ全ての人が持っているのではないか。クックは間違いなく貧富の差を拡大している。私に接する多くの人がお金に強い執着を持っているように見える。

挨拶の返事を最後まで聞かない。すれ違いながらそのまま遠ざかっていく。明らかに後半は聞こえておらず、言葉がかぶっていることも多い。1 内容が分かりきっているので最後まで聞く必要がない。 2 挨拶すること事態が大切で、内容は重要ではない。

嫁と姑が普通に言い争いをしている。少なくともその事が後まで引いてはいない。

ルフレッドが、言った。昔は食料がもっと安かった。ソ連が助けてくれたからだ、と。今は誰も助けてくれないとも。確か93~94年が食料危機のピークだったはずだ。米はブラジル産で、1ポンドが配給だと0.25ペソ、全く自分で買うと5ペソ。

夕食を食べに母屋に行くとアルフレッドが待っていて、18クックじゃ安すぎてやっていけない、助けてくれ、と言ってきた。アラセッリが今朝もずっとアルフレッドやグランマにたぶん言ってたことだ。いろいろ話した後、10クック追加で払うことにした。食べ物が高くて暮らしていくのが大変で、それはすぐ隣のアメリカがキューバを封鎖しているからだと言った。こんな風にいろいろやりあった方がこちらの真意も伝わり仲良くなれるので私は好きだ。革命前は、ここから船で簡単に行くことができたそうだ。ついでに、なるべく母屋に長く居たいと私の希望を伝えると、即了解してくれた。

お金は明日の朝持って来ることになったが、あしたは日曜日で朝から買い物に行くので、今持って来て欲しいと言ってきた。最初に払うときもそうだったが、とにかく早く現金を手元に置こうとする。

お金を持ってくると、食事の時は扇風機をこちらに向けてくれるは、おかずは大盛になってるは、食後ベランダで私と一緒に居てくれるはで、対応がはっきり変わった。よほど最初の値段が納得出来なかったのだろう。私が払うお金のうち、8ペソは家主が取り、を運営を任されてるアラセッリが残りを取るそうだ。私から見ると、別に何をしてるわけでも無さそうなので10クック取れば十分な気がするが、彼女には彼女なりの計算があるのだろう。キューバでの月給はパン屋で10クック、産婦人科医のアルフレッドで25クックだそうだ。

さらに寝室を見せてくれた。8畳ほどの広さで、円形の大きなダブルベッドと大きなクローゼット、32インチほどのパナソニックのテレビとシャープのDVDプレイヤーとやはり日本メーカーの小さな冷房があった。

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