imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

認識世界 4 空について

認識のフィードバックは以下のようになっている。

外界と意識の間のフィードバック。

意識と無意識の間のフィードバック。

無意識の中でのフィードバック。

意識からの入力があると、無意識は好むと好まざるとに関わらず、無意識内でフィードバックを続けてしまう。つまり自分の心的状態は常に変化する。故に外界のものの見え方は常に変化する。つまりその時々に外界のものの関係は組み変えられている。そして次の瞬間の関係は、今は不明なのだ。(ただそのすべての可能性が見えていることを悟りと言うのだと思う。)別の言いかたをすれば、今は「仮の関係」「仮の姿」と言うことだろう。このような関係が成り立つためには、次のようになっていると思う。

それぞれの事物にはもともと価値が付いてなくて、その時々の関係で価値が付けられていく。

例えばおもちゃのレゴで車を作ったとする。あるレゴはドアの一部、あるレゴは天井の一部、あるレゴは・・・。このレゴをばらして、一つ一つのレゴにした時、果たしてこれを車と言えるのだろうか。ドアの一部だったあるレゴをドアだ、と言えるのだろうか。それぞれのレゴにはもともと価値が付いてなくて、その時々の関係で、ドアになったり、天井になったりする。

こう言う状態、こだわりのない認識のことを「空」と言うのだと思う。空のことを説明する時によく言われる言葉、あるとも言えるし、ないとも言える、とは、このこと、つまりレゴで作った車をばらした時、車と言えるのか、を指しているのだと思う。更には次の瞬間には飛行機になってるかも知れない、その可能性まで見えることを空を獲得した、つまり悟りと言うのだろう。

そしてその関係の中には、実は自分も含まれているのだ。外界が刻々と変っていくのに合わせて、こちらも刻々と変わっていかざるを得ない。それが、釈迦の言っている「こちらが生ずれば向こうが生じ」や「向こうが生ずればこちらが生ず」と言うことなのだと思う。

外界が空であることを認識するためには、つまり外界をこだわりなく認識するためには、こだわりの無い意識でなければならないだろう。意識は無意識に決定的に依存しているので、こだわりの無い認識のためにはこだわりの無い無意識が必要と言うことになる。

こだわりの無い無意識・・・。つまり無意識を操作する。果たしてこんなことが出来るのだろうか。