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いつもの見慣れた通勤路が、違って見えるときがある。妙に明るく色鮮やかに見えるときや、奥行きがあるように見えるときがある。これは、いつもの通勤路が今日に限り明るく色鮮やかになっていたり、奥行きができたのではもちろんない。こちらの気持ちがいつもと違っていたので、見え方が違ったのだ。
例えば目の前にタイで買ったコップがある。いま気がついたのだが、柄の部分が楕円ではなく、四角く角張っている。これじゃ少し持ちにくいよなぁ、と思う。もう一度コップに視線を移すと、本体よりも柄の部分が見えてしまう。この変化はこちらの心の変化を反映したものだ。
例えば目の前にタイで買ったコップがある。きのうこのコップがきっかけで大切な人と思わぬ大喧嘩をしてしまった。今、このコップの見え方はいつもと違うはずだ。苦々しい思いで眺めてる。
例えば目の前にタイで買ったコップがある。きのうこのコップを口に押し付けられての窒息殺人事件が起きた。もちろんいつもとまったく見え方が違うはずだ。
つまりこちらの持ってる情報次第でものの見え方は違ってくる。言い換えると、こちらの心的状態次第でものの見え方は違ってくる。
更にコップ一つをとっても、コップにまつわる過去の経験、記憶は人それぞれ違う。それはつまり1つのコップでさえ、人によって見え方が違っていると言うことだ。
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例えば目の前にタイで買ったコップがある。いま気がついたのだが、柄の部分が楕円ではなく、四角く角張っている。この視覚入力が引き金になって、これじゃ少し持ちにくいよなぁ、と言う出力を引き出した。この出力が入力になって、次なるその人固有の出力を引き出していく。そう言えばこのあいだ買ったコーヒーカップは見た目はおしゃれだったのに、同じように持ちにくかったよな。このコップを作る人ももう少し実用性を考えれば良いのに。この出力が入力になって、次なるその人固有の出力を引き出していく。
こちらの心的状態次第でものの見え方は違ってくる、と言うことは、同じコップを見ているにも関わらず、心の中ではフィードバックが効いて、心的状態が絶え間なく変化していってる。
つまり刻々と見え方が違っている。
1つの外部入力をきっかけにしての意識内でのフィードバックの連続。
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目の前のコップを見ると、こちらの心的状態に影響を与える。そのことによってコップの見え方が変わる。この入力が更にこちらの心的状態を変える。そのことによってコップの見え方が変わる。コップと意識との間のフィードバックの連続。
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更に意識と無意識のフィードバック、無意識内でのフィードバックを考えると、人は一瞬たりとも同じ状態ではないだろう。
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鴨長明の”川の流れは絶えずして、しかももとの流れにあらず”と言うのはこのことを言っているのだと思う。
釈迦が”こちらが生じれば向こうが生じ、向こうが生じればこちらが生ず。こちらが滅すれば向こうが滅し、向こうが滅すればこちらが滅す”といってるのも同じことだろう。