先日、告別式に出席した。その時考えたことについて書いてみたい。
私の基礎知識が間違っていなければ、目新しいことは何も書いておらず、思い付きはなく、論理的帰結のみである。
1 なぜ人は葬儀を必要としたのか。
1)共同体からの理由
葬儀をすることによって共同体の一員としての一体感を強化し、共同体を維持する。故に共同体で弔う。
共同体がなければ人は生きていけないので、この理由は大切であった。
2)先祖崇拝からの理由
今の自分があるのは先祖のお陰、先祖が私たちを見守ってくれている、という気持ちがあれば、先祖に列席することになる死者を一族で弔う。
3)個人としての理由
大切な人として、今までのつながりに感謝して、個人として弔う。
4)死者の安寧からの理由
死者がこれからも安らかであるように願うために弔う。主体はそれを願う人々。個人でも、共同体でもよい。
2 以上のように考えた時、葬儀は現代によってどのように変形されるか。
1)共同体は解体しつつある。故に共同体を強化、維持するための葬儀は存在価値を失っていくだろう。
2)先祖を崇拝、尊敬している人々も減少しているだろう。今の自分が子孫のことを思って生きていないように、先祖が自分のことを思って生きていたと思うことができない。自分が思い至れる範囲は、臨場感を持って感じられる人だけである。せいぜい上下3世代か。故に先祖のための葬儀は価値を失っていくだろう。
今でも先祖を崇拝できる人とは、遺産や名誉を相続していい思いをして先祖に感謝している人だと思う。損得勘定が主流になっている社会で、自分に得をもたらさない人は評価の対象にならない。
3)大切な人を失って悲しく感じる個人は相変らず葬儀をする動機がある。癒される理由があるだろう。
4)死後の世界を信じる人も減少していくだろう。しかし終末に関わった人は、魂の継続を感じてしまい、死後の安寧を願うだろう。
3 結論
共同体は解体していき、先祖にもありがたさを感じなくなり、死後の世界も信じなくなっている。
残るは個人的な関係での弔いだけである。
故に葬儀は時間も費用も簡略化し、死者に直接かかわる個人が納得すればそれでよくなる。つまり葬儀、葬送の個人化が起こる。既に始まっている宗教離れも加速し、僧侶も、戒名も、祭壇も不要になっていくだろう。
追記
かつては死の恐怖や、死後の世界の不可解さ、現世での苦しみを納得するために宗教があった。しかし死後の世界は信じられなくなり、現世での苦しみは心理学や精神医学のほうが効果的になった。残るは死についてだけである。
もし宗教に今後も揺るがぬ役割があるとすれば、死を受容するときの心構えだけになると思う。
だとすれば、例えば仏教について言えば、死後の世界を信じない終末の人には天国の安寧も通じない。故に日本の仏教も本来の仏教のように、関係の概念で、つまり空の概念で死を説明しなければならなくなるだろう。そして空の概念は、現世での苦しみにも適用される可能性がある。