端的とはそこから始まることである。意思とは未来を志向し、決断することとする。
意思はそこから始まっているのか。つまり行為者が主体的に決断したのか。だとしたらその責任はすべて行為者にある。
行為者の判断の根拠は過去の経験からきているだろう。その過去の経験は行為者が主体的に作り上げたのか。
過去の具体的な体験は、一度限りの奇跡として生じたものだ。主体者がマネッジmanage出来るものではない。ではその体験をもとにしてなされる判断は主体者がマネッジ出来るのか。判断はそれ以前の経験をもとにしてなされる。その経験を形作る具体的体験はやはり一度限りの奇跡として生じたものだ。
体験はマネッジできないとして、性格は人によってそれぞれだ。その性格が判断に影響を及ぼしているのではないか。もちろん穏やかな人と、イケイケの人とでは判断に差が出るだろう。
しかし性格はその主体者がマネッジできるのか。もちろんできない。
人の性格は、半分は先天的なもの、半分は後天的なもの、と言われるが、先天的とは遺伝子由来のことである。もちろんマネッジできない。後天的とは環境のことである。もちろんマネッジできない。つまり性格は主体者の判断の影響を受けない。
とすれば、端的であると思われている意思は、実は外界によって決められていることになる。行為主体は外界になる。全体の流れの中で、行為主体と思われている人はその役割を演じているだけになる。