imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

ザンジバル、ストーンタウンのパレスに行った

先週ザンジバルに行ってきた 。宮殿や 宮殿の横にある old fort 古い城塞を見てきた。

ザンジバル島の貿易都市ストーンタウンは1698年にオマーンサルタン国がポルトガルを駆逐して支配下におき、対ポルトガルを意識した要塞を築いた 。それがオールドフォートだ。1840年には 都をオマーンのマスカトから ストーンタウンに移した。 1856年から1890年までは 独立したザンジバルスルタン国として存在し、その後イギリスの保護国となり 1963年まで続いた 。ザンジバル スルタン国は、東アフリカからアラビア向けの奴隷貿易象牙 の中継点となり 大いに潤った。

宮殿 に入ってみた 。まずその小ささに驚いた 。とても奴隷貿易で潤った国とは思えない。 いったい交易の富はどこに消えたのだろう 。外国の武器購入や贅沢品に消えたのだろうか 。それともそれほど儲かってなかったのだろうか。

次に宮殿の無防備さに驚いた。 1800年代に建てられた宮殿は海岸に面している 。1930年代に増築されたと思われるバルコニーからは ナツメヤシの向こうに海岸が望め風通しが良く気持ちがいい 。しかし1800年代といえばすでに 艦載の大砲が十分な威力を発揮していた時代だ。 なのにむき出しのままで海岸に建てられている 。一体どういうことだろう 。

そもそもヨーロッパとの 戦争を想定していなかったのだろうか 。つまり始めから降伏するつもりだったのか。 もしくは攻撃されることがないと想定していたのだろうか 。実際1886年のイギリスからの小一時間の 攻撃以外ザンジバルは攻撃を受けることがなかった 。しかしそれは決定的な敗北だったのだが。

それとも高地がなかったので城塞の建築を諦め、都を捨ててオマーンに 逃げるつもりだったのだろうか。 しかし帰りの貿易風が吹いていなければオマーンにたどり着くことはできない。

同じことはオールドフォートでも感じた 。大砲が実戦で使われるようになったのは1500年頃からだが、 艦対地としては たとえば1637年の島原の乱の時に幕府がオランダに依頼して艦砲射撃が原城に対しておこなわれている。 old fort が建てられたのは 1698年 だが 大砲が出現する以前の背の高い壁を巡らせた造りになっている。 大砲出現以降は、背の高い石垣は、砲弾が当たった時に石垣が崩れて兵士を傷つけるので、 背の低く幅のある土塁の壁に変わっている。 砲弾のエネルギーを吸収する作りに変わったのだ 。オールドフォートはそういう作りになっていない。

オマーンスルタン国は本国のマスカットをポルトガルに1507年から1650年まで占領されている 。この間オスマン帝国に2度占領されたので、ポルトガルは1586年にマスカトにフォートを築いている。 海岸の小高い岩山に作られた要塞だ。( この2度の占領時、艦隊を率いて現れたオスマン帝国軍はマスカトに対して艦砲射撃をしているはずだ)1650年にマスカットを回復した オマーンスルタン国は1698年にその要塞をそのまま平地のしかも町の中心に建てたのかもしれない。