imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

カルタゴ 宗教的至福

21日 日曜 近くの都市カルタゴに行った。電柱があった。この町も何度も地震で倒壊している。中央公園の横に本来ならあるカテドラルが建設途中のまま残されている。1900年初頭の地震で建築放棄された。
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その地震に耐えてきた教会がある。バシリカ
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ここにも奇跡を起こした黒いキリスト像が祭られている。普段は教会の外の施設に置かれているが、クリスマス前だからか、今日は祭壇の中に置かれていた。だからなのか分からないが、今日の日曜午前のミサは満員で、入りきれない人達が、教会の外にあふれていた。
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ミサが終わると、多くの信者が教会の入り口から膝立ちで祭壇の前まで歩き始めた。イエスが膝まづいて歩かされた故事に倣っての行動だ。
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私は写真を撮りたかったので、早くみんな帰ってくれないかなぁ、と思いながら後ろの端で見ていた。ところがいつまでたっても中央通路が満員なのだ。どこから人が湧いてくるのだろう。同じ人達が何周もしてるのかもしれない。これじゃいつまでたっても終わらないな、と思って、最前列の端まで行った。そこでしばらく祭壇を眺めながら、どうやって写真を撮ろうかな、と考えていた。何気なく膝立ちで祈ってる目の前の人たちを見たとき、うわっ、この人ら、本気で祈ってるわ、と感じた。周りを見渡すと、膝立ちで祈ってる人達に囲まれている。そう思ったとたん、信者の雰囲気に飲み込まれてしまった。信者の集団の真摯な気持ちが心の中に入ってきて、妙な高揚感と一体感、そして安らかな気持ちに満たされる。よく見れば泣いてる人もいる。宗教的至福感。 予期せぬ心の変化に私は驚いた。 日本の仏教はお寺に行って、仏さんを拝んで帰ってくる。拝むとか参拝すると言った表現がしっくりくるが、私がここでよく行くカトリックの信者の行為は、拝む、とは違った印象を受ける。拝むと言うのではなく、対話している感じだ。イエスに向かってずっと話しかけている。実際に声に出して話しかけている人もいる。泣きながら話している人もいる。イエスとの、答えの出ない、そして終わることのない対話。