雑感 書評「阿部一族」1913年刊 2025年4月28日
1912年の乃木希典の殉死に触発されて書かれた小説である。江戸時代の殉死の記録を小説の形で再現している。つまり記録に残る実在の人物達を描いた歴史小説である。もちろん登場人物の感情は鴎外の想像である。
あらすじ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E4%B8%80%E6%97%8F
「阿部一族」を読むと、悲惨だと素直に思う。愚昧な藩主がもたらした悲劇である。さて、藩士にとって藩主が愚昧かどうかは偶然による。であるならば、愚昧であることを前提に行動するのが適応的だろう。名藩主の跡取りが名藩主であるかは不明である。
阿部一族成敗に参加した藩士たちは、与えられた役割を真摯に果たした。つまり家に籠もった一族を皆殺しにした。選択の余地はなかっただろう。だとすれば、この悲劇の責任は、責任を問われることのない藩主に帰するしかない。つまり制度として欠陥がある。
この作品を読むと、江戸時代前期の殉死を取り巻く状況がよく分かる。恩を着た直参は殉死するのが当然なのだ。問題は、その境界にいる人たちである。殉死を申し出るか、出ないか迷いがある。申し出をしなくて周囲から命が惜しいと思われると一族の恥になる。子孫の冷遇にもつながりかねない。本人は申し出る必要を感じていなくても、周囲にどう思われるかを予想すれば、殉死を申し出たほうが、さっぱりとする。以上のような経緯をたどって境界線上の人たちも殉死をすることになる。本人も、一族も、藩主も望んでいない殉死である。
小説リテラシーのある現代の私たちは、歴史小説が事実と違うことを問題視する必要はない。小説は作者が主張したいことが都合よく書かれている読みものである。
乃木希典は陸軍大将である。森鴎外は当時陸軍中将相当であった。乃木は上位官であり、国民の英雄であった。乃木が殉死した時、肯定的評価が国民の大勢であった。もし鴎外が乃木の殉死に肯定的であったなら敢えて何も言う必要が無かった。何か表現したのなら、それは批判的な気持ちから発していると考えざるを得ない。そしてもちろん立場上批判はできない。ただ事実を淡々と描くしかない。それが「興津弥五右衛門の遺書」や「阿部一族」だと思う。
では鴎外の目的は何だったか。殉死をする乃木の覚悟や心構えを評価したかもしれないが、ヨーロッパ、ドイツにとても馴染んだ鴎外である。ヨーロッパでは人命重視のキリスト教が普及して以降、生贄も殉死も存在しない。殉死自体には違和感を持ったと思う。乃木希典殉死後すぐに「興津弥五右衛門の遺書」を書いたのは、実際の殉死はこのような痛ましいものだ、ということを多くの人に知らせることによって、殉死賞賛の大波に注意喚起したかった、また後を追うことを余儀なくされる行為軍人の殉死を思いとどまらせたかったのではないか、と思う。皇位継承順位のように、順番は思い描かれていただろう。
しかし現代の私たちが、鴎外が乃木の殉死をどう考えていたかを詮索しても実はあまり意味がない。
鴎外が生き生きと描写してくれた殉死前後の物語は、現代から見ると、数千年前の古代エジプト王国のファラオの葬儀を思い出させるし、その習慣に異様なものを感じるが、果たして自分がその中に埋め込まれたら、拒否できるのだろうか。境界の内側で殉死が避けられない場合はどうしようもないが、選択可能な境界線上にいたら、果たしてだんまりを決め込むことが出来るのか。
抗生物質が無く、もともと病気や怪我がもとで簡単に人が死んでいった、死が身近にあった時代ではあるが、当主だけでなく、妻や家族までが時間を措かずに死を受け入れることに驚く。まさに死と隣り合わせに生きていたのだろう。死ぬことさえ覚悟が決まってるにもかかわらず、周囲の目を気にして殉死を申し出る、と言うのはどういうことだろう。死さえ覚悟が出来ているのだから、自分が考えて、自分で決めて、自分で責任をとる覚悟も決まるのではないか。ここで問題になるのが連帯責任である。大切な家族、一族にまで責任が及ぶのである。これが、自分で決めたことを自分で責任をとる覚悟を鈍らせる最大の要因だと思う。周囲の目を気にする最大の要因だと思う。つまりこの場合、自己決定権を確立させない最大の原因は連帯責任である。
だとすると、それは現代の私たちと直接のかかわりのある問題になる。犯罪者の家族は犯罪者だろうか。犯罪者の家族は非難されて当たり前なのだろうか。誰かがルールを破ったら全員が丸坊主にしなければならないのだろうか。連帯責任は支配する側には都合が良いが、個人の自由を奪う。
追記
・「興津弥五右衛門の遺書」に書かれていたと思うが、
すべて功利の念をもって見れば世に尊きもの無し
という表現があった。経済学用語で言うと、交換価値と使用価値は別である、ということだ。例えて言うと、大切な人の形見を売っても高く売れないからと言って、自分にとって価値がないわけではない、ということである。こういう表現を見ると、学問の装いをとって難しい表現を使っているが、昔から知られていたことが色々あるんだなぁ、と思う。
・殉死は1683年の武家諸法度による2度目の禁止の布告が出て以降、ほぼ途絶した。禁止の主な理由は、優秀人材の喪失による藩政の停滞、殉死者達の大規模な葬儀と、遺族の扶養による支出増大の藩財政への悪影響などのようである。人命は問題ではなかったようだ。
・乃木の殉死は漱石の「こころ」にも引用されている。身近に感じる人の存在の自殺は無条件に衝撃を与える。その衝撃を和らげるためにその理由を考えたり、その人の気持ちを思い遣ったりと各人それぞれが独自のやり方でその衝撃と折り合いをつけようとする。小説への乃木の引用は、殉死に対して漱石が考え獲得したものを小説に応用したのだろう。軍人である鴎外が小説にしたのとは決定的に書く動機が違うと思う。鴎外は我がこととして受け取り、我がこととして書いた。
・「興津...」以降、鴎外は歴史小説を晩年まで断続的に書き続ける。何故ストーリーの自由に展開できる現代小説ではなく、展開の外形が決められている歴史小説を好んだのか。それは歴史的に実在した人物であるが故により強く臨場感をもって鴎外が共感できたから、そして読者も共感できると考えたからだと思う。歴史資料を読み込んで強く共感した時、それを小説の形で表現したいと思ったのだろう。ある時代、ある家庭環境の制約の下で一生懸命に生きた人物に共感したのだと思う。もちろん自分を重ね合わせてである。つまり歴史の中に自分を見つけ出して無意識に慰撫していた、のだと思う。
もう一つの理由は、舞台を現代から離すと、舞台に馴染みがないゆえに表現した情報に付随する雑多な情報が読者から剥脱するからだと思う。つまり書かれたものがかなり純粋な形で読者の中で映像化される、と思ったのではないか。時代ものを読むとき、読者は“居住まいを正し”て読書に取り掛かると思う。