7月から数か月ほど旅行に出ようと思っている。
私には植物を育てる趣味がある。サボテンやランだ。旅行中、誰かに預けなければならない。
家に戻ったら返してもらうのだが、もし私が相手だったら、返すときどう思うかな、と考えた。
きっと預かったときは手間なので、面倒だな、と思うだろうが、いざ返すときは、手間をかけた分、愛着を感じて、返すのが少し惜しくなるのではないか、と思った。
どうしてそう感じるのだろうか。掛けた手間が愛着を生むのだろうか。
手間をかける、とは、相手の反応、状態を観察することを含む。生き物である限り状態は変化していくが、手間をかけた時は、その変化を相手からの応答と感じるのだと思う。そして自分の手間に報いてくれた、と錯覚し、愛着が湧く。
つまり、手間をかける→相手が変化する→応答があった、つまりこちらの期待に応えてくれた→愛着が湧く。そして愛着が湧くから更に手間をかける、という循環が起こる。
植物は相手の反応が見えるまでに数日から数週間かかるが、動物だと数秒で相手の反応が見える。つまり僅かの時間で圧倒的な循環が起こり、結果、強固な愛着が生じると思う。
しかし実際は、こちらの掛けた手間が、意図したとおりに作用して相手を変化させているかどうかは不明である。その時々に証明のしようが無いし、多分にこちらのしあわせな勘違いの可能性がある。
つまりそもそも、まずこちらにしあわせに勘違いしたい、都合よく解釈したい、という志向がある、と思う。
抽象化すると、まず都合よく解釈したい私の志向がある。次に、相手に作用を及ぼし、そこに変化を見つけると、私の期待に応えてくれたと、その変化を格好の対象として愛着を添付する。そしてそれを繰り返す。
人はあらゆるものにこれを試みているのではないか、と思う。
ではなぜ幸せな勘違いをするのか。都合よく解釈をするのか。それによってストレスが減るからだと思う。ストレスが減り、メンタルの状態が良くなり、生き残るのに有利になり、結果としてその遺伝子を残したのだと思う。
ということは、この志向を利用して、よりストレスの少ない生き方が意図的に出来ると思う。
フロイトが創設した精神分析学にディフェンス メカニズム(防衛機制)という概念がある。ストレスに晒されたとき、その不安を軽減しようとする無意識のメカニズムのことで、このしあわせな勘違いもそれ、またはそれの応用にあたると思う。