有名な和歌である。石川五右衛門の辞世の句と言われている。私は初句の存在を今まで知らなかった。
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
大意は、浜辺に大量にある砂がたとえ尽きたとしても、世の中から盗人になる種はなくならないのだ、である。
またまた今回気付いたのだけれど、盗人がいなくならない、と言っているのではなく、人が盗人になる原因が無くならない、と言っている。貧困のことである。さすが奥が深い。たぶんその通りだと思う。
私は気になっていることを、短期で処理できる集合と、中期で処理できる集合に分けて書き出している。というのも常に意識化することによって、しなければならないことが、訳の分からないままに肥大化し無意識に蓄積して私を圧迫しないようにしている。これを実行することによって、漠然と急かされることが激減した。
しかし、書き出すことが、次から次へと出てくるのである。日常、メモはグーグル キープを使っているのだけれど、一覧性と、書き込みの自由度が少ないので、このときは裏白の紙を使っている。そして毎日のように紙が埋まっていくのである。
そして私は書き込みながら、つい口走ってしまうのである。浜の真砂は 尽きるとも 世に心配の 種は尽きまじ、と。
生きている限り、心配ごと、気になることは湧き続ける。人とはそういう生き物である。何故なら未来は不確定である。不確定とは、はっきりとは分からない、ということである。だから不安なのである。
だとしたら心配があること自体を気にしても仕方がない。生きるとは、それが込みになっているのである。分割できない。
ならばさっさと気持ちを切り替えて、心配ごとと仲良くやっていくしかない。隣にいて当たり前の、友達なのである。