imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

タイの玉ねぎ輸入

今年はスーパーの玉ねぎが高いな、もう収穫期が終わってるのに、どうして高いのかな、輸入物は入って来てないのかな、と思いながら、財務省の貿易統計を基にした「ベジ探」というサイトを見て、衝撃を受けた。

2020年の国別玉ねぎ輸入量は1位は中国で、全輸入量の95パーセントほどを占め、5位のタイは全体の0.2パーセントで555トンだった。

 

私は1990年代、タイ北部のチェンマイ近郊の玉ねぎ栽培農家に民泊していたことがある。山のふもとの畑に玉ねぎが栽培されていて、豊富な地下水を電動ポンプで引いて冠水していた。ほとんどの玉ねぎが日本向けに作られていた。収穫時に詰める赤い網袋には、日本語のタグが付いていた。条件の良い畑の第一選択が玉ねぎだった。他に地元タイ向けのロンガンとレイシの果樹も実入りが良かった。

タイでは日本で食べる大型の玉ねぎを食べない。タイで利用するのはピンポン玉ぐらいの小さな玉ねぎだ。なので日本向けの玉ねぎのことを、中国の玉ねぎ、と呼んで区別していた。

 

1991年の玉ねぎ輸入量を見ると、タイは2位で全体の13パーセントの8245トンであった。1位はアメリカで23509トンで37パーセントだった。

 

私が泊めてもらった農家は、村の玉ねぎ生産農家と買取会社の間に立って、玉ねぎの買取価格を決める立場の人だった。玉ねぎの出来によってそれぞれの畑での買取価格が違っていた。

 

その人は通称ピーさんといった。ピーさんと話していると、ピーさんはまるで未来永劫日本向けの玉ねぎ輸出が続くような話し方をしていた。

ある時私が、中国のほうが人件費が安いから、そのうち生産地が中国に移っていくと思うよ、と言うと、絶句してまじまじと私の顔を見ていた。

 

帰国後数年はスーパーの玉ねぎの生産地を注意して見ていた。タイ産の玉ねぎは、日本の玉ねぎの端境期の2月から4月を狙って生産されていた。その時期にはタイ産の玉ねぎが普通に売られていた。

まだまだ中国には移ってないんだな、と思っていた。そのうち玉ねぎのことは忘れてしまっていた。

 

今日統計を見て、タイ産玉ねぎのあまりの少なさに衝撃を受けた。あれから30年ほどが経っているが、ここまで激減するとは思ってなかった。

その時ピーさんのことを思い出した。ピーさんのあの顔を思い出した。別の玉ねぎ農家の仲良くなった息子のことを思い出した。

 

今あの畑が荒れ地になっているとは思わない。豊富な地下水が利用できる、非常に条件の良い畑だった。豊富な水を利用して別の作物を作っていると思う。

ただある年に、種子を大量に買ったのに中国産に押されて日本に売れなかった、という可能性がある。大型の玉ねぎはタイでは消費されない。つまり売れない。借金を抱えて、畑を売った農家があるかもしれない。

 

追記

 

玉ねぎの収穫にはお金を払って近所の人たちに手伝ってもらうが、その中に近くの山から来ている山岳民族のカレン人たちがいた。

彼らの家にも泊まりに行った。山の中の斜面を切り開いた小さな集落だった。山の木を切り出して作った半高床式の掘っ建て小屋だった。

彼らの日当を聞いたら、タイ人より1割ほど少なかった。

 

彼ら少数民族はタイ人に差別されていた。当時彼らはIDカードを持ってなかったと思う。つまり国民として扱われてなかった。いや、教会にタイ人の先生が来て小学生に勉強を教えていたから、公的サービスを受けていたのかもしれない。女の子が、先生は私たちを馬鹿にして、酒を飲みながら教える、と目をうるわせていた。

 

私は言おうかどうか迷ったが、タイ人の日当を伝えると、言下に、嘘だ、と否定された。

そんなことも思い出した。