先日部屋を移動した。その時、”大量のゴミ” が出た。一生使わないだろうと思われる物の数々。汗をかいて運んでいるときに、このバカげた行為が、無性に可笑しくなり、大笑いした。
それにしても何故こんなに大量の使わない物を溜め込んでいたのか、を考えてみた。これはヒトの属性を表現しているに違いない。
カラハリ砂漠の狩猟採集民サン、つまりブッシュマンの記録を読むと、私有の概念はほとんどなかったようだ。獲物が取れれば数家族の血縁集団でほぼ均等割りをして配った。調理なべは、数集団に一つで、使っていないときに、それぞれが融通して使っていた。
もしこの所有形式が現代の私たちの遺伝子に強く残っていたなら、私たちはもっと物を共有しているはずだ。
では何故そうならなかったのか。
環境が非常に不安定になったとき、つまり食料が不足した時、食料を共有した人々は共倒れして生き残れなかったのだろう。非常時には、その時食べられるだけの食料と、一時的な安全な住みか、そして生殖相手が所有物として欠かせなかったのだと思う。
つまり非常所の所有物はすべて欠かすことのできない物だった。その遺伝子が、現在の私たちの行動を強く規制しているのだと思う。
逆に言えば、物を捨てるとは、遺伝子に打ち勝ったという意味で、理性的行為なのだ。断捨離が流行っているが、断捨離は前頭葉を使う、まさにヒトらしい行為なのだろう。
もちろんこの非常時に有利な行動様式だけでは、共有概念を大切にする、つまり集団を形成するヒトに平時には勝てなかっただろう。集団で協力して生きるほうが有利だからだ。共有の遺伝子も残っている所以である。