imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

病気になるということ 病気は人生に何をもたらすか

先日、生焼けの鮭を食べて食中毒になった。 多分原因は腸炎ビブリオだと思う。

 

快方に向かい、食欲が出てきた時、和食の朝食をどうしても食べる気が起こらなかった。 それから数日後の今も、サンドイッチを食べ続けている。 前回サルモネラ菌で食中毒になった時は、それまで食べ続けていた朝食のパンを止めて和食に変えたのだけれど。

 

床に伏している時、強く湧き上がってきた思いがある。 このばかげた自己規制を捨ててやるという思いだ。 そのとき頭に思い浮かんでいたのは、行きたい所へも我慢していかず、食べたいものも我慢して食べず、買いたい物も我慢して買ってなかった。

なぜ行きたいところにもっと行っておかなかったのだろう。なぜもっと何々しておかなかったのだろう。 

 

ところで、人は今際の際に深い後悔に襲われると言う。 人目なんか気にせずにもっとしたいことをしておけばよかった、と。

 

もちろん死ぬ気は全くなかったが、腹痛に耐え、食欲もなく、動くこともままならず、布団の中でただ横たわって苦しんでいると、今までのつまらないこだわりが途方もなく馬鹿げたことのように思えて来たのだ。

 

病気は今までの人生を振り返る契機になると思う。 大切なのは動けない、つまり床に伏していることだと思う。 動けなければすることもなく、あれこれととりとめもないことを考えてしまう。 その中から自分の人生を振り返るきっかけが生まれ、現在の不自由な状態が、我慢してきた過去を思い起こさせる。そして、もっと何々しておけば良かった、と思う。結果、よし良くなったらもっと何々してやろう、と行動変容・価値変容を促すのだと思う。つまり病気は人生の未知の扉を開く力があると思う。

 

追伸

 

今際の際の感情は、自己規制への深い後悔と取り返しのつかなさ、であるのに対し、病気では、自己規制への怒りと未来への希望、とそれぞれの感情は異なるが、共通するのは、動けない、振り返って考える、人生を俯瞰する、ところだ。だとしたら、不自由状態で人生を俯瞰したら、必ず反省が起きて、価値変容が起こるのだろうか。

生きていくうえで、たとえ無意識であるにしても人は常に我慢を強いられている。対人関係はもちろん、対自然に置いても、暑い、寒い、痛い、痒い等々。であるなら、我慢は別のものを優先した結果として生じた状態だから、優先度を変えることによって我慢の多少を変えることができる。そこに反省の契機がある。そして反省とは思考する事である。

話が飛躍するが、逆に言えば、我慢が反省を生み、反省がヒトの大脳新皮質の発達を補強した、と言えるかもしれないと思う。