imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

社会と芸術の関係

人は生き延びるために、さらにはより快適に生きるために集団を作ってきた。

集団社会は約束事によって成り立っている。 約束事がなければ社会は成り立たない。 人々が利己に振る舞えば当然社会は成り立たなくなる。 家族内の個々人が利己に振る舞えば家族は崩壊する。


個人から見れば社会は個人の自由を制約する。 関係の中で役割を担わなければならない。
社会がより大きくなって、見知らぬ人と接するようになると、利害による争いが起こらないようにより強制力のある約束事つまりルールが必要になる。

余談だが、権力とはこの約束事・ルールの適用範囲を決め、罪の重さを決める人が持つ力のことだ。ゆえに社会があれば必ず権力は生じる。

この自由の制約が人を鬱屈させ、不全感・欠損感を与える。 つまり社会に属する限り、人は不全感・欠損感から逃れられない。つまり社会は必然的に人を鬱屈させる。
これでは社会が持たないので、社会は個人の全体性を回復する装置を持っている。非日常空間であるお祭りだ。

社会による自由の制約は欠損感を埋め合わせようとする欲求、解放されたい欲求を生む。 その欲求が祭りだけでなく芸術をも生んだのだと思う。

祭りは、身体性重視あえて言えば出力重視で、直接的で能動的体験だ。 こちらはシステムとして社会に組み込まれている。非常に強い解放感を生む
芸術は感覚器重視つまり入力重視で、間接的で受動的体験だ。 芸術は間接的であるがゆえに脳内で身体性を再現する努力が必要になる。
芸術は、不全感を刺激し、全体性の回復を日常の中で後押しする。更に言えば、日常の中で全体性の回復が起こったときに、人はそれを芸術と呼ぶ。

祭りは非日常を立ち上げるが、芸術は日常の僅かな隙間に非日常を立ち上げる。
祭りは体を動かすが、芸術は体を動かさない。

以上、社会は人を必然的に鬱屈させる。それを解消する行為として、祭りと芸術が用意されている。

追記
芸術とは以上のことなので、そういう力を呼び起こす人つまり芸術家はある種の能力を持っていると思うが、芸術で感動する人は欠損感を埋め戻そうとする自然の力が働いているだけなので、芸術愛好家に高尚とかの特別の価値を置く必要はないと思う。喉が渇いた時に水を飲もうとする行為に似ていると思う。