imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

競争するということ

競争が発生する理由は資源が限定されているからだ。 これがすべての理由である。
ようやく手に入れた貴重な食料、安全な睡眠場所、交尾相手。
ヒトはその発生以前から、限られた資源を求めて生存をかけて競争してきた。競争は人の習い性になっている。

現代でも人は競争好きだ。勝つことによって優越感を感じていたい。勝つことによって他者からの承認を得たい。
つまり社会や自分に対して力の存在を証明したい。自分の価値を証明したい。他人と比べて自分が優れていることを証明したいのだ。

競争について

例えばウサインボルトと私が1年後に100 M 走で勝負しようぜ と約束する。 私は1年間仕事を続けながら毎日努力を積み重ねる。 1年後私はボルトに負ける。 その負けは私にとって何を意味しているのだろう。一年間の私の努力は無駄だったのか、 練習方法は間違っていたのか。

それまでの人生で、100 m 走にかけてきた練習時間も違う、費やしたお金も違う、競技の経験も違う。年齢も違う。育った家庭環境も周辺環境も違う。まったく前提が違っている時にある能力を比べてみてもその勝敗は両者にとって何も証明しない。 獲得した能力は偶然の結果だからだ。
私がボルトに負けたこと自体が何かを意味しないし、競争のために費やした努力を無効にもしない。当たり前だが私の一切の価値を減じない。
勝敗によって明示されたある能力の差については、素直に認めればいい。資源が限定されていれば敗者はその資源にありつけない。

実際には現代の多くの競争には資源の制限がない。 その瞬間で見れば資源が制限されているように見える場合も、冷静に長期的に見れば資源は制限されていない。人生の夢への到達方法は決して一つではない。

私たちが日頃やっているのは資源の制限のない競争だが、より重要なのは日常的に何気なくやってしまう他者との仮想の競争だ。
実際に競争するのではないが、心の中で仮想の競争をして他人と比べてしまう。そして優越感を感じたり劣等感に苛まれたりする。ところがその勝敗自体はそもそも何も証明しないのだ。
資源の制限のない競争をお遊びでするのは良いが、負けたことによって劣等感を抱くのは自傷行為である。

ただし以下のような競争なら意味を持つと思う。
一週間後のタイムを0.1秒あげる目標を立てる。 そのための練習方法を色々考えて実践する。 一週間後タイムを計る。 目標を達成できれば自分との競争に勝ったと考えるのだ。
ボルトとの競争も、自分との競争の中の通過点に過ぎず、その後も目標を決めてタイムを上げていく。
本来好きなことであればこういう態度になると思う。ある時点で誰かと競争をして勝敗が決まったとしても、その結果にかかわらずその後もその道を進んでいくだろう。

要約すれば、獲得した能力は偶然の結果である。しかし人はその能力で社会の中を生きていかなければならない。だとしても競争の勝敗自体には意味がない。故に敗けて劣等感を抱くのは自傷行為である。勝って優越感を抱くのはお門違いである。