imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

宝の持ち腐れ

若い頃ネパールで一か月以上入院した事がある。 ある日、同室患者の見舞い客が私に缶ジュースをひとつくれた。 お礼を言って受け取ったのだけれど当時はプルトップなどなく、道具を使って缶を開けなければならなかった。 私は缶切りなどというものを持ち合わせていなかった。 毎日その缶ジュースを眺めながら過ごした。 ある時、別の患者の見舞い客が、私が缶ジュースを眺めているのに気づいて話しかけてきた、 飲まないのかと。 缶切りがないのだと笑いながら答えると、ナイフは持っていないのかと言う。 刃先を缶に当てて上から叩くのだと。 私は果物をむくために小さな、玩具のような折りたたみナイフを一つ持っていた。 こんなもので開くのかと半信半疑ながらやってみると、苦もなく穴が開いた。 ナイフが缶切りになるという発想がそもそもなかった。 そしてチャイとお湯だけの毎日からひととき解放されたのだ。

最近念願のバイオリンを買った。 弓を弦に当ててみるとギーコギーコという音がする。 この音を聞き続けていると、このバイオリンはこういう音しか出せないような気がしてくる。 しかしもしここにイツァク パールマンが来てこのバイオリンを弾いたなら、素晴らしい音を奏でるに違いない。 私は深い感動につつまれるだろう。 このバイオリンはそんな音を出せるバイオリンなのだ。

私に知識や技術がないがゆえに資源を利用できない。 さらにはその可能性に気がつかない。 宝であることに気がつかない。
持ち腐れた宝は貴重な物に限らないだろう。 身の回りにある物や事の可能性にどれだけ私は気づいているか。 宝であることに気づいているか。宝になることに気づいているか。
庭に植わった草花という宝を持ち腐れていないか。部屋の観葉植物と言う宝を持ち腐れていないか。人間社会という宝を持ち腐れていないか。家族や子供という宝を持ち腐れていないか。自分という宝を持ち腐れていないか。

すべては自分次第だと思う。