imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

エッセイ 松葉杖の体験 2022年11月

40代の前半、足のけがをして松場杖をついていたことがある。

 

その時自転車通勤をしていたのだけれど、やむなく電車通勤に変えた。たかだか15分から20分の乗車だったが、満員である。初日は本当に恐る恐る乗った。窓付近は押されるのが怖かったので、座席方面に何とか移動していくと、驚いたことに座っていた人が席を譲ってくれたのである。通勤電車で席の譲り合いがあるとは思わなかった。感謝して座らせてもらったのである。足が曲げられないので、申し訳ないがまっ直ぐ伸ばしっぱなしである。ホッとして座っていると、乗換駅で、かなりの人の乗降があった。その時に伸ばした足が持って行かれるのである。下りる人たちは必死なので私の足をそれほど構っていられない。かなり痛かったのである。

今日はたまたま親切な人に当たったのだろうと、翌日また同じ行動をとったのである。するとまた席を譲ってくれるのである。実は座りたくなかったのだけれど、その気持ちに感謝をして座って、また同じ痛さを経験した。

この日以降も席は毎回譲られた。譲ってくれた人はさまざまである。若者から初老まで。特に男性に多かった。

日本人も捨てたものではないな、と思ったのである。

 

仕事の帰り、久しぶりに新宿のデパ地下でショップが集まっているあたりをうろうろした。松葉杖で歩くのに慣れていないので、あまり早く歩けない。お店の前をゆっくり見て歩きたいという気持ちもあって、松葉杖をいいことに立ち止まりながら商品を見て回った。それまでは店員の視線が気になってどうしてもゆっくり歩けなかったのである。

で、それ以降、松葉杖を言い訳に店頭でよく立ち止まるようになった。店員がしつこく売り付けるような、心配していたことは何も起こらなかったのである。

その後松葉杖なしで歩けるようになった時、松葉杖があったときには出来て、無いときには出来ない、という何の物理的理由も無いだろう、ということに気が付いて、以降、普通に立ち止まれるようになったのである。

 

ある状況で出来ることは、直接の影響がない限り、必ず別の状況でも出来るものなのだ。

例えば、皆で出来たのなら、1人でも出来るはずである。皆で出来て、1人で出来ないのは、ただ衆を頼んでいるだけである。

例えば、以前行ったことのある外国を訪問するとき、それほど緊張せずに行けるのなら、初めて訪れる外国もそれほど緊張せずに行けるはずである。することはどちらも同じだからである。飛行場に着いたらまず両替をして公共交通手段を探して市内まで行く。ただ少しスムーズに進まないだけである。

 

足を怪我した当初は、憂鬱な気分だったが、いざ松葉づえ生活が始まると、予想外のことに出会い、とても楽しかったのである。

当たり前だけれど、わざわざ松葉杖生活を送る人はいない。偶然が非日常をもたらして、楽しみながら新しいことを知ったのである。

 

最近の日本人だけでなく、偶然に左右される人の人生もまた捨てたものではない、と思ったのである。

バカの考え休むに似たり、について 2022年11月

この人生に対する態度の前提は、

1 まず、自分はおバカさんである。

2 次に、おバカさんは考えても正しい結論を導けない、だろう。

 

1について

 

時間順で見れば、始めはすべての人は知識の量が少ないという意味で、おバカさんである。その意味では小学生はおバカさんである。その小学生が、バカの考え休むに似たり、と言われて、確かに僕はおバカさんだ、考えるのはやめとこう、ではすべての人がおバカさんどまりになってしまう。

 

能力について見れば、日常生活を最終的に一人で判断・実行している人は基本的能力は備わっている。あとは考えるか、考えないかの違いだ。

最初は壁が高くて思うように進まないイメージがあっても、考えることを続けていくと、慣れることによって心理的壁が低くなっていく。壁が低くなるのでますます考えることに抵抗が少なくなる。という正のスパイラルが起きる。

逆もまた然りである。考えないといつまでも慣れないので、ますます壁が高くなっていくのだ。

 

2について

 

まず数学には正しい結論と言うのがあるが、身の回りの社会に、正しい結論と言うのはなかなか確定しない、もしくは無い、と言うことを前提にしたうえで

私も一生懸命に考えた結論が間違っていた、もしくはどうも違うようだ、ということが時々ある。

もしすべての考えたことが間違っていれば、やる気をなくすだろう。しかし正しいことも間違っていることもあるのなら、フィードバックを効かせればいいのである。つまり何故間違ったのかを振り返り、間違った個所に戻り、その原因を突き止めるのである。そうすれば同じような箇所で次回間違うことが少なくなるだろう。試行錯誤の繰り返しである。その過程を楽しめばいいのである。

 

世の中に間違わない人はいない。ただ間違わない量と、間違う量の割合が違うだけである。であるなら気にする必要がない。楽しめばいいのである。

 

以上当たり前のことを書いてきたが、私の言いたいことは以下である。

 

上記のことを感情面から見ると

バカの考え休むに似たり、は、やらないことへの自分の言い訳になっていると思う。考えるのが面倒臭いのである。考えたほうが良いに決まっているということは薄々気づいているのだけれど、それに直面したくないのである。しかしそれを認めたくないので、とっておきの言葉を使って、自分に言い訳をしている。

したほうが良いに決まっていること、つまり課題、から逃避し続けた人生と、課題に楽しく向かい合った人生とでは大差がつくのは当然だと思う。

 

余談

 

多くの日本人が馬鹿になって一体だれが損をするのだろう、と思う。誰が得をするのだろうと思う。

差別について思うこと 2022年11月

ここでは差別を以下の概念として使う。

ある人をある集団に帰属させて、その集団にマイナス評価を与え、その結果ある人にマイナス評価を与えること。

もしくはその逆でもよく、マイナス評価されているある集団に、ある人を帰属させ、ある人をマイナス評価すること。

 

例えばある民族の特徴が日本人より自己主張が強い場合、それ自体が民族的劣性になるはずはない。と言うのも環境に対して何らかの優位性があったから獲得された特徴だからだ。

例えば日本人のマジョリティー同調圧力が強い場合、それ自体が民族的劣性になるはずはない。それは存続するのに有利に働いたからこそ獲得されたからだ。

 

ある一つの特徴が常に優位に働くということはない。逆もまたしかりである。ある特徴は、ある局面では優位に働き、別のある局面では不利に働く。

例えば日本人の同調圧力の強さは、非常時には優位に働くはずである。一致団結して事に当たれるからである。しかし平時にはお互い足を引っ張り合って、創造性を発揮しにくい。

これは個人の性格についても同様のことが言える。ある性格は、ある場面では優位に働き、ある場面では不利に働く。

 

ではある集団がみすぼらしい場合はどうか。みすぼらしい、不潔、臭いなどは、価値としてプラス評価しにくい。そういう集団は差別されても仕方がないのか。

少し考えれば分かるが、ある集団が好んでみすぼらしいことを選択するはずはない。それには何か事情があるのである。例えば敗戦して間がない日本はダニ・シラミが蔓延していたようだけれど、日本を訪れたアメリカ人はそこに非常にみすぼらしく不潔な日本人を見たはずである。しかしもちろんこれは日本人がそもそもみすぼらしく、不潔が好きなのではない。事情があったのである。

同じようにある国のあるマイノリティーグループがみすぼらしい、つまり貧しいことがよくある。これも彼らが貧しいことが好きなのではなく、条件の良い職場に就職できないからである。

 

ではある人が不潔な場合はどうか。もちろんそこにも事情があるだろう。例えば両親が家庭の維持を半ば放棄した家で育ち、衛生感覚を身に付けられなかった。

また、あまり衛生的であることを気にしない、気にならない、障害も含めた性格・個性なのかも知れない。本人にはどうしようもないことである。であるならば大きく変わるのは難しいだろう。もしそれが自分だったら、と考えれば明らかである。

 

つまり人を見下す正当な理由を見つけるのは難しいと思う。にもかかわらず差別は日常的に存在する。それはなぜか。



以上の例を踏まえて、その理由を抽象化すると、以下のようになると思う。

 

人にマイナス評価を添付するのは、人を見下したいからだ。そういう心の傾きがある。

ではなぜ人を見下したいのか。

 

1  ある人の中に見たくない自分を見て、自分はそんなではない、と感情的に否定してしまい、その手段として相手にマイナス評価を添付する。いじめでは、よくある構図だと思う。

エッセイ 教育や学習について思うこと 2022年11月

私は子供たちを預かる施設と関りがあるのだけれど、大人たちが子供のことを思って接しても、当の子供たちはその意味を理解していない。もしくは反発して理解したくないのだろう、と言う場面を時々見かける。

自分が子供のときを振り返ってみると、父親に、世界にたった3人しかいない兄弟なのだから、もっと大切にしろ、とよく言われた。その時はもうひとつピンと来なかったし、しばしば兄弟げんかをしていたので、相手憎しの気持ちが強くて、素直にその言葉を聞けなかった。

大人になってからその言葉を時々思い出すのだけれど、世界にたった3人しかいない、と言う意味をしみじみ実感できるようになった。また父親がどういう気持ちでそれを言っていたかも想像できるようになった。

別の言葉で言えば、学習したのだと思う。

 

そこから類推すると、子供がその意味を理解していないからと言って、子供がその言葉に反応していないからと言って、働きかけるのをやめないほうが良いと思う。その時はその働きかけを受け入れられなくとも、時期が来た時にその意味を理解し、受け入れるようになるかもしれないからだ。可能性から言えば、受け入れられるようになるだろう、からだ。

 

教育や学習を、その時に意識的に獲得したことだけに限定すると、効率の悪い作業になると思う。

例えば、10教えたのに3しか理解しなかった。これを、その時に意識的に獲得したこと、で評価すると、時間を無駄に使ってしまった、と言うことになりかねない。3理解して、残りの7はバッファとして次回の理解の準備として積み上がっているかもしれない。

 

また例えば、懸垂を10回出来るようになろうと心に決めて毎日校庭に通ったが、結局3回しかできなかった。この結果を、その時に意識的に獲得したこと、で評価すると、失敗に終わった、と言うことになりかねないが、その時は気づかなくても、ひとつのことを目標に決めて、それに向って進むとはどういうことか、どんな気持ちになるか。努力するとはどういうことか。日々の生活にそれを取り入れるとき、どう時間をやりくりして調節するか、など多くのことを学習している。

 

つまり

教育については、月並みだけれど、子供の可能性を信じる、と言うことになると思う。

学習については、好きなことは何でも挑戦するのが良いと思う。たとえそれが社会的評価が低いことであっても、例えばマンガばかり読む、であっても、その実践で獲得できるものは、本人にとっても、周囲の人たちにとっても目に見えない多くのものを含んでいると思う。

人はしばしば間違えるものである 2022年10月

よく知られていることだけど、知らず知らずのうちに私もその罠に落ちているので、再確認したいと思う。

 

人が判断をするとき、以上の行為をしていると思う。

 

1  まず自分の目の前にたくさんの事実(正しいとされる論理も含む)があって、判断をするのに必要だと思う事実をその中から選択する。

 

2  次にその事実から論理を組み立てる。

 

3  最後に、その論理から帰結される結論を得る。



ではどこに間違いの可能性が隠れているのか。

1  まず何よりも、目の前に必要な事実が並んでいない可能性がある。知らなかった。気が付かなかった。その可能性はいくらでもある。

これが間違う一番大きな理由だと思う。

 

2  事実の選択が不適切な可能性もある。しかしある程度経験を積めば、また全体が見えていれば、それほど大きな間違いはないと思う。

 

3  論理の組み立てミス。これも経験を積めば、間違う可能性はほとんどないだろう。事実が出揃えば、結論はまず一義的に決まってしまうように思う。

 

4  直接には間違うことと関係がないが、自分で事実を選択し、それを組み立て、結論を得ると、それに固執するものである。薄々は分が悪いな、と気づいてもなかなかそれを認められない。これは間違いが訂正されない大きな理由だと思う。

非常に漠然とした話であるが、自然科学の新発見は、若いときからの主張が後年に事実が確認されるということが多い。他にもいろんな人がいろんなことを言っているのだが、ほとんど主張を変えることなく年を取り、時期が来て誤りが確定する。

つまり自分が思いついた結論はなかなか手放せないのだと思う。

 

以上、繰り返すと、大事なものがそもそも生板の上に載ってない可能性がある。それは自分が知らないからだが、知らないが故に、誤りに気が付かない。

だから自分の得た結論は間違っている可能性がある、と言う前提に常に立つのが賢明だと思う。

なかなか難しいとは思うけれど。

新しい事実が出てきたら、木っ端微塵なのだから。

よろしかったら教えてください イギリスと日本の庭いじりの違い 2022年10月

私は植物が好きで、ベランダで植木鉢を利用して植物を育てているのだけれど、大きめの植木鉢ひとつは特に手を加えないでそのままにしている。今年の夏は、メヒシバとエノコログサが盛大に育った。

ベランダの植木鉢を見ていると、時間がたつのも忘れて、没頭するというか、白昼夢の世界に入り込んでいる。

自分の好きにしていい庭があったら、どれほど楽しいだろうと思う。

 

庭で思い出したのだけれど、イギリスではガーデニングが盛んなようである。バラの花が思い浮かぶ。

 

で、こんなことを思った。植物の栽培で管理と放任があるとしたら、私が一つの鉢をある程度自然に任せたように、日本人の庭いじりはどちらかと言うと、放任に傾くと思う。庭の全てを思ったように管理しようとはしないだろう。あるがままを楽しむ、と言う感覚があると思う。

イギリスの庭いじりはどんなであろうか。私のイメージでは、フランスは、フランス料理やフランス式庭園を見ると、自然を人工の力で制圧をするのが好きなように見えるが、イギリスはある程度は野趣を好むのだろうか。以前ロンドンを1週間だけ旅行したことがあるが、思ったよりも控えめさがあって、日本人と共通する部分があるなと感じた。

 

よろしかったら教えてください。

マイナンバーカードに個人情報が紐づけられてない 2022年10月

今回のコロナ騒動で、日本の後進性が浮き彫りになっているが、そのひとつに給付金が手元に届くのに時間がかかったことだった。ネットで申し込むより、郵便で申し込んだほうが早い、と言うこともあった。

その遅さの最大の理由はマイナンバーカードに銀行口座が紐づけられてなかったからだ。

 

最近ユーチューブを見ていると、もっと早くに個人情報(銀行口座や健康保険など)をマイナンバーカードに紐づけておくべきだった、という論調がよく目につく。

で、それが出来なかった理由を、個人情報を政府にセットで差し出すと、悪用されて人権抑圧につながる、と、”人権派”の評論家・知識人が騒いだからだ、と説明しているが、いやいや、それは順番が逆でしょ、と思う。

 

もともと国民の多くが政府を信用していないのだ。だから自分の大切な情報を政府にセットで渡すことに抵抗があった。だから”人権派”の人たちの主張に首肯したのだと思う。

 

台湾でも韓国でも、自分の大切な情報を政府にセットで渡しても、政府はそれを悪用しないだろう、という信頼が日本より高かったのだ。かつ情報リテラシーが高くて、今後の利便性を考えれば、協力するしかない、と思ったのかもしれない。

 

日本政府がすることは、まず国民からの信頼を少しでも上げていくことだと思う。このままだといつまでも不幸な状態が続くことになる。

その為には、最低でも選挙公約は守ることである。国会を開いて、議論することである。

面倒臭い、の乗り越え方 気力の充実 2022年10月

毎朝私は瞑想をしているのだけれど、始める直前、面倒臭いな、と不穏な感情が頭をよぎることがある。

で、面倒臭い、と言うことについて考えてみた。

 

まず面倒臭いとはどういう時に感じるかと言うと、したほうが良いのは分かっているけれど、したくないときである。まぁ、身もふたもない話である。

 

では何故したくないのか。理由は2つあると思う。

 

1 リターンが意識されていない

それを実行した時に得られるリターンを強く実感できていない。またそれを実行しなかったときの後悔が実感されていない。

やるかやらないか迷った末に、結局実行した時、やって良かったな、と思うことがよくある。と言うかほとんどがそうだろう。つまりリターンを強く実感できていなかったのである。

その類似だが、臨終の今はの際に、もっとあれをやっておけば良かった、もっとこれもやっておけば良かった、と後悔するそうだが、しなかったときの後悔が実感されていなかったのだろう。恐ろしい後悔である。

 

2 心身が充実していない

 

1) 体力がないから

例えば、仕事から帰って来た時に、時間はあるが、疲れて料理をしたくない。旅行に行ったとき、もう一つ観光地に寄ってみたいが、疲れて行きたくない。

 

2)  気力がないから

例えば、瞑想は認識操作をするので、心に力がないと集中できない。したくないなぁ、と思うのである。掃除をしようと思い立った。時間もあるし、疲れてもいないのだけれど、何となくやる気が出ない。

 

それぞれの対処法は以下のとおりである。

 

1 リターンを意識するには、実行・達成した時を想像して嬉しい臨場感を高めることだろう。

 

1)体力の維持、増強は、周知のとおりである。目標を立てて、コツコツするしかない。もちろんそれが苦行になったり、面倒臭くなっては元も子もない。リターンを意識して、臨場感を高め、楽しく達成していくのである。

 

2) 気力の充実

ここからが本題である。

気力とは、2種類あると思う。

1)) ひとつはアドレナリンを分泌させる気力で、Fight or Flight が典型的である。火事場のばか力もそうだろう。

するかしないか迷う、と言う状況ではなく、するしかないから気力が充実してしまうのである。

 

2))  もうひとつはノルアドレナリンを分泌させて獲得する気力である。するかしないか迷ってしまう時に必要な気力はこちらのほうである。

こちらの気力を別の言葉で言うと、心のゆとり、になると思う。

で、以下が心のゆとりの獲得方法である。

1)))  リラックスする。ノルアドレナリンを分泌させるのだから、当たり前である。更には日常生活のストレスを意識化して、それを減らしていくことだろう。

 

2)))  時間に余裕を持つ。リラックスするための前提条件だろう。とても大切なことだと思う。一日の始まりである出勤前に、バタバタして出かけるのは論外であると思う。

 

3)))  基礎気力?を上げる。つまり自己肯定感を高めることである。自己肯定感が高ければ、不必要にストレスはかからない。これまでも何度も言ってきたが、自己肯定感を高めるためには、世界観を変えるしかない。

 

以上書いてしまうと当たり前のことだが、意識しておくことは大切だと思う。

エッセイ オートキャンプ 世界の外側を経験するということ 2022年10月

以下のような人たちとはすべてとは思わないが、私が感じるオートキャンパーについて書いてみたい。

 

私は山でテント泊をするのが好きで、以前はよく山梨方面に出かけていた。そこでオートキャンパーを見たり、動画を観たり、話を聞いて思うことがある。それは、街の生活を自然の中に持ってきただけだなぁ、と言うことである。

”快適に楽しく過ごしました。そういえば周りの風景がいつもと違ってたなぁ”

せっかくいつもと違う場所、未知の世界、日常世界の外側に来たのに、何も体験せずに帰ってゆくのである。

自然は未知の宝庫である。植物、昆虫、コケ、キノコの生活。彼らどうしの関係である生態系。地形の成り立ちとその成長過程。そこに転がっている石や岩石の生成過程。

そしてそのような自然に触れた時の自分の意識の変化。

 

もちろん1人で楽しく騒ぐのもいいし、みんなで楽しく騒ぐのもいい。が、時には世界の外側を経験するのも悪くないと思う。

 

私の感覚で言うと、自然は非常に緊密にバランスを取って存在している。

そこにツバキが生えているのは半分は偶然であるが、半分は必然である。そこにはアカマツやイロハモミジは生えれなかったのである。少し植物の種類が分かってくると、そう言うことに興味が湧いてくる。

木の種類が違えば、生えるキノコも違ってくる。実際にそのことを肌で知ると、キノコと植物の関係に興味が湧いてくるだろう。

自然の中で安らかな気持ちでいると、時に変性意識が訪れて、超常体験をすることもあるだろう。

 

小さな生き物たちの暮らしが見えてくるようになると、自分もその中の一員である実感を持つことがあるだろう。街に帰っても、小さな生き物たちの存在に気付くことになるだろう。そうなれば、もう今までの世界に住むことは出来ないと思う。街にいても、小さなものたちの息吹きが聞こえるようになるからである。

 

世界の外側を経験するとは、新しい価値を取り入れるということである。世界が広がるということである。別の言葉で言えば、成長するということだ。

世界の外側を経験することは少し勇気がいるが、実際に踏み越えれば楽しいことなのである。オートキャンプはそのきっかけになると思う。

 

実にもったいない、と思うのである。

 

もしもケニアを旅するのなら 2022年10月

表題を何かの隠喩と思って読もうとしている方、それは勘違いです。これはガチの表題です。

 

「愛と悲しみの果て」と言う映画を観たことがあるだろうか。1985年公開の、ロバート レッドフォードとメリル ストリープが主演のケニアが舞台の映画である。撮影もケニアで行われている。原作は1937年に出版されたアイザック・ディネーセン「アフリカの日々」である。原作はほぼ実際の体験談だと思う。

 

とにかく大自然の風景が美しい。永遠に続くと思われる濃淡のある緑の疎林の平原。さえぎる物の無い夕焼け。

 

私はこの風景に心を打たれた。

 

で、縁あってケニアを訪れる機会があった。景色の雄大さに感動しっ放しである。エジプトからバスに乗って順次南下していったのだが、エチオピア中部あたりまでは砂漠気候かステップ気候で、日本人がイメージするアフリカらしくなかった。

が、エチオピアを南下してケニアに近づくにつれて、広大な平野または丘陵地に疎林が広がる景色に遷移していった。

ある峠を越えていきなり目の前に予期せぬ”アフリカ”が広がったとき、私は思わず胸が熱くなった。

 

そこからタンザニアに至るまで、幾つかのステップ気候を挟んでサバンナは広がり続けたのである。

 

これらの国の都市に滞在していると、サバンナの広大さが実感できない。広大さどころか、その存在にも気付かないだろう。たとえ地方都市であってもである。1000ミリ前後と雨量がそれほど多くないため、人口密集地は水を確保するため、周囲と比べて高い場所にはない。故に見通しが効かないのである。

 

ではどうすれば良いか。都市と都市を移動するときのバスを利用するのである。バスは乗用車よりも座席の位置が高く、より展望が効く。もちろん窓際に座ることを忘れないように。

 

私はこのバスから忘れられないいろんな景色を見た。百頭を超えるウシの群れを棒を持ってゆっくり追う遊牧民の男たち。川のように密集するヤギを追う子供たち。見渡す限り、道も人家も見えない、アカシアを中心とした灌木林。遥かかなたの林に、ウシの移動と思われる、舞い立つ砂塵。木の骨組みに赤土の泥

エチオピアからケニアの首都ナイロビに行く途中


などを詰めて円柱形の壁を作り、屋根にはワラ?を円錐形に載せた、おとぎ話に出てくるような小さな家。

 

私の頭の中では、ずっと「愛と悲しみの果て」の主題歌が流れていた。

 

帰国後、間を置かず原作を日本語で読んだ。

 

旅行では知り得ない、いろんなことが書いてあった。1920年前後が舞台で、当時イギリスの植民地であったが、欧米のいろんな国から人が流れて来ていた。行政官を除けば、まあ、食い詰めた人たちである。アメリカはまだ覇権国ではなく、田舎から来た人、と言うような扱いである。第1次大戦の敵国だったドイツ人はさすがに居なかった、と思う。

また著者が経営していた農場には、さすがと言うかインド人もいたし、はるばるソマリ人も来ていたのである。

 

実際にケニアに行った後に、そこを舞台にした作品を読むと、妙に臨場感が湧き、またいろんな疑問が立ち上がってくる。

 

原作の中でさらりと書いてあったが、非常にショックを受けたのは、黒人は土地を所有できない、と言うことだった。遊牧民は土地の所有概念が無かったろう。しかし曲がりなりにも交易都市があったのだ。都市部には土地の所有概念があったはずである。またキクユは農耕民族なので、土地所有概念があったはずだ。

彼らすべてをひとつにまとめ、黒人の土地所有は禁止だったのである。

またあちこちに分散して遊牧していたマサイを植民地経営の妨げにならない区画に強制的に追い込んでいる。

改めて植民地の過酷さを知るのである。

そしてアフリカの中では優等生と言われる今のケニアタンザニアの政治の混乱や経済の貧困を思うのである。

 

で、表題に戻ると、もしケニアを旅するなら、行く前に「愛と悲しみの果て」を観ることをお勧めする。その美しい風景に心打ち震わせながらのケニア旅行である。

原作は旅行前に読んでもいいが、もうひとつ書かれていることに実感が湧かないと思う。なので帰国直後に読むことをお勧めする。忘れられない読書体験になるだろう。