imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

季節は常に先行する 人は寒暖に悩まされ続ける

四季の変化は心を和ませる。春はウメ、夏はサルスベリ、これは最近のことだ。秋はヒガンバナ、冬はサザンカ

しかし夏に向かっては、常に暑さに悩まされ、冬に向かっては常に寒さに悩まされる。5月の五月晴れには既に汗ばんで夏を思い遣り、9月の雨の日には既に体をちぢこめて冬を思い遣る。

人はなぜ夏の盛りのずっと前から暑さに悩み、冬の盛りのずっと前から寒さに悩むのか。その理由を考えた。

1 体の慣れ 1月末ごろの小寒の時季になると、それまで続いていた気温の低下も終わり、気温は低位安定する。すると体がその気温に慣れてきて、以前ほどの寒さを感じなくなる。つまり気温が下がっていく時期は、その気温に体が慣れる前に気温が下がってしまうので、より寒さを感じてしまうのだ。夏に向かっても同じことが起こる。

2 服装の遅れ ある時点で着ている服装は昨日までの気温に合ったものだ。だから例えば気温下降局面では服装は常に後れを取ることになる。季節の変わり目に通りを眺めていると、オーバーを羽織ってる人がいるかと思えば、半袖で歩いてる人がいることにもなる。服装に限らず、寝具でも同じことが起こる。当然、気温上昇局面でも同じことが起こる。

3 三寒四温 冬から夏に向かって気温は同じ割合で上がっていない。ことわざに頼れば、3日寒い日があって、4日暖かい日がある。春に3日寒い日があるのは昨日までの気温と同じである。暖かい日が4日あったときに人は気温の変化を感じる。気温は波を描きながら上昇していく。上昇局面では、上の波の時に気温の変化を感じるのだ。5月に暑さを感じるのはそういう時だ。

以上3つの理由で、季節は人を先行してしまうのだと思う。いつまでたっても人は季節に追いつけない。別の見方をすれば、季節は、遅れがちな人を導き続けてくれているのだと思う。

ガイド本なしの旅行 モバイルなしの旅行

三十年ほど前、地球の歩き方を持たないことを自慢する旅行者がいた。旅行者から直接聞くのだと。それを聞いた私は、どちらも旅行者情報で、出どころは同じじゃないか、と思っていた。

数年前に旅行をしたとき、モバイルを持たない旅行者に出会った。私にはとてもできないと、素直に評価した。

 

インターネットが普及する前の安宿の共用空間は、旅行者の情報交換の場として必要不可欠だった。目的は情報交換でも、結果として一緒に食事に行ったり、しばらく一緒に旅行したり、仲良くなったりした。ネットが無かったときは、旅行者同士挨拶するのが当たり前で、話すのが当たり前だった。人との出会いが当たり前だった。

しかしすべての情報がネットから入手できるようになると、共用空間から人の姿は消え、皆ベッドに寝転んで、音楽を聴いたり、SNSにふけるようになった。人と話す必然性がなくなり、実際人と話さなくなっていったのだ。

 

無くなって初めてその大切さが私には分かった。三十年前に、地球の歩き方を持たないで旅行することは、意義のあることだったと今は思う。

数年前トルコの地方都市を歩いていた時、ザックを背負った旅行者から声をかけられた。近くにホテルはないか、と。彼はモバイルを持っていなかった。人に聞かなければ、宿にさえ辿り着けないのだ。彼の旅行は人と喋りまくってると思う。そうしなければ旅行が継続できないからだ。重い荷物を背負ってあちこち人に聞きながら初めての街を歩くのはとても消耗するだろう。そしてその見返りに、彼は多くの忘れがたい経験をしていると思う。

 

先進国ではグローバル化のために共同体が解体し、個人が孤立して不安を抱えている。そのことが、旅行者の行動にも影響を与えてると思う。安宿で他の旅行者に不必要に声をかけることをためらわせているのだ。なぜなら傷付くことが怖いからだ。

この不安とネットの普及が、旅行者を自分の殻に閉じ込めていると思う。

 

今後ネットが無くなったり、従来の共同体が再生する可能性はゼロなので、事態はより孤立する方向にしか進まない。

 

三十年前、国内の同調圧力を嫌って貧乏旅行に出た旅行者が、旅行先の安宿で集団を作って同調圧力を駆使する場面をよく見た。

今、国内の孤立感を嫌って人情味のある途上国を旅行者は目指すのだけど、滞在先の宿では自ら進んで孤立してしまう。

ガイド本なしの旅行 モバイルなしの旅行

三十年ほど前、地球の歩き方を持たないことを自慢する旅行者がいた。旅行者から直接聞くのだと。それを聞いた私は、どちらも旅行者情報で、出どころは同じじゃないか、と思っていた。

数年前に旅行をしたとき、モバイルを持たない旅行者に出会った。私にはとてもできないと、素直に評価した。

インターネットが普及する前の安宿の共用空間は、旅行者の情報交換の場として必要不可欠だった。目的は情報交換でも、結果として一緒に食事に行ったり、しばらく一緒に旅行したり、仲良くなったりした。ネットが無かったときは、旅行者同士挨拶するのが当たり前で、話すのが当たり前だった。人との出会いが当たり前だった。

しかしすべての情報がネットから入手できるようになると、共用空間から人の姿は消え、皆ベッドに寝転んで、音楽を聴いたり、SNSにふけるようになった。人と話す必然性がなくなり、実際人と話さなくなっていったのだ。

無くなって初めてその大切さが私には分かった。三十年前に、地球の歩き方を持たないで旅行することは、意義のあることだったと今は思う。

数年前トルコの地方都市を歩いていた時、ザックを背負った旅行者から声をかけられた。近くにホテルはないか、と。彼はモバイルを持っていなかった。人に聞かなければ、宿にさえ辿り着けないのだ。彼の旅行は人と喋りまくってると思う。そうしなければ旅行が継続できないからだ。重い荷物を背負ってあちこち人に聞きながら初めての街を歩くのはとても消耗するだろう。そしてその見返りに、彼は多くの忘れがたい経験をしていると思う。

先進国ではグローバル化のために共同体が解体し、個人が孤立して不安を抱えている。そのことが、旅行者の行動にも影響を与えてると思う。安宿で他の旅行者に不必要に声をかけることをためらわせているのだ。なぜなら傷付くことが怖いからだ。

この不安とネットの普及が、旅行者を自分の殻に閉じ込めていると思う。

今後ネットが無くなったり、従来の共同体が再生する可能性はゼロなので、事態はより孤立する方向にしか進まない。

三十年前、国内の同調圧力を嫌って貧乏旅行に出た旅行者が、旅行先の安宿で集団を作って同調圧力を駆使する場面をよく見た。

今、国内の孤立感を嫌って人情味のある途上国を旅行者は目指すのだけど、滞在先の宿では自ら進んで孤立してしまう。

感情と、不確実性への適応戦略

脳科学では感情(emotion)は不確実性への適応戦略であるという考え方がある。これをヒントに考えてみた。

 

ある出来事に遭遇した時、感情が生じて、感情とともに出来事が記憶される。強い感情を引き起こした出来事は強く記憶される。

予想外の出来事に遭遇した時、強い感情が生じて、強く記憶される。つまり未知の出来事は強い感情を添付されて記憶され、既知の出来事になる。言い換えれば、感情が生じた前と後では価値体系が変わったといえる。別の言葉で言えば、学習した。

つまり学習するには、感情の生起が必要である。

 

以下具体的に感情を考える。

怒り  突然人に押された。未知の出来事に遭遇した。驚きと共に怒りが湧いた。経験が記憶される。この世には突然人を押す人がいるのだ。今後はそれに備えよう。感情の前後で価値体系が変わった。感情の生起によって、価値は組み替えられた。学習した。

もし前もって、この人は私を押す、ということが分かっていれば、怒りは生じなかっただろう。つまり学習効果がある。

 

恐怖 山道を歩いていると、ヒグマに出くわした。驚きと共に恐怖を感じた。経験が記憶される。こんな山道にはヒグマが出る。これからはここを歩かないようにしよう。価値は組み替えられた。学習した。

もし前もってヒグマと出会うことがかなりの確率で分かっていたら、恐怖を感じなかったか。驚きはもちろん無いだろうが、恐怖は感じるだろう。つまり出会わないための学習効果はあるが、出会ったときは学習効果がない。

 

嬉しい  突然尊敬する人に褒められた。嬉しい気持ちが湧き上がる。今後そういう経験に備えよう。しかしこれは必要な学習ではない。強く記憶に定着しておく必要もない。何度でも喜べばいいのだから。つまり学習効果はないことになる。

嬉しいは学習するため、不確実性への適応戦略のために手に入れた感情ではなく、関係を強化するために手に入れた感情だと思う。

 

悲しい  大切な人を突然失った。とても悲しい。大切な人もいつかは死ぬのだということを学習する。悲しみながら、大切な人のいない世界を少しずつ受容していく。

前もって死ぬのが分かってれば、悲しみは生じないか。いや、深く悲しむだろう。つまり同じことがまた起こっても、同じ感情が生起する。その意味で学習効果はない。

悲しいも、嬉しいと同じく関係を強化するために手に入れた感情だと思う。

 

結論

 

ヒトが最初に獲得した感情は、fight or flight にかかわる怒りと恐怖だと思う。突然ある状況に遭遇した時、戦う(怒り)か逃げる(恐怖)ことが必要だった。その行動を強化するためにまず怒りや恐怖の感情が創られたのだと思う。(ただ快・不快感情はそれよりずっと以前からあった)

その後、生き残りをかけてより大きな集団を形成する必要に迫られた時、集団形成に有利に働く感情、つまり嬉しい・悲しいを手に入れたのだと思う。

 

感情の現代的意味

 

人はそれぞれ価値観を持っている。通常それは固定され変化しない。言い換えれば学習しないということだ。故に学習するには、

1 感情を起動させる。

2 論理を起動させる。(この場合も、分かった、という嬉しい気持ちが生じていると思う。)

 

ここでは1について考える。分り易くする為に感動に置き換えて考える。問題は感動しようと思っても感動できないことだ。世の中には感動屋さんがいるが、何が違うのか。思いつくままに挙げると、

1 こだわりが少ない。故に多くのものが見える。

2 心に余裕がある。夕焼けの美しさに気付く。

3 世界はこうなっている、という具体的なフレームを持っている。故にそこから外れた事象を見ると、あれっ、と思う。

4 他者の感情を感じて、感動してしまう。

 

2については、副交感神経優位なのだと思う。

3については、知識の多少はあまり関係なく、世界への態度、つまり、世界はワクワクしたもので満ちているはずだ、という態度が大切なのだと思う。つまり世界を肯定的に受け入れている。

1についても3と関係していて、世界に敵対してしまうと、自分を守るためにこだわりで身を固めることになる。 すると多くのものが見えなくなってしまう。故にこだわりが少ないとは、世界を肯定的に受け入れていることだと思う。

4については、経験の多少はあまり関係がない。相手の気持ちが分かってしまい、共感してしまう。熱を出したことのない人は、高熱でうなされている人の気持ちはわからないだろう。これは経験に依る。一生懸命に生きてる人の姿を見れば、思わず感動してしまう。大切なのは、経験の多少より、共感能力の多少だ。つまり経験が多くても共感能力が低ければ、感動は起らない。つまり相手の中に大切な自分を見れるか。となると結局、自己肯定感の問題になる。

ただ共感による感動は、感動の前後で価値変容が起こってないように思う。間をおいて同じものを見れば、やはり思わず感動してしまうだろう。故に学習効果がないので、ここでは除外する。

 

以上、感情の現代的意味の一つは、学習するのに利用できることだが、自発的に感情を生起させるのは難しいので、それを起こり易くするためには、

1 副交感神経優位を保つ。これはすぐにでもできるだろう。

2 世界を肯定的に受け入れる。これは自己肯定感を高めるしかないので、時間がかかる。

 

ここではわずかの種類の感情だけで考えた。いろんな感情で考えても、楽しめると思う。

 

感情と、不確実性への適応戦略

脳科学では感情(emotion)は不確実性への適応戦略であるという考え方がある。これをヒントに考えてみた。

ある出来事に遭遇した時、感情が生じて、感情とともに出来事が記憶される。強い感情を引き起こした出来事は強く記憶される。

予想外の出来事に遭遇した時、強い感情が生じて、強く記憶される。つまり未知の出来事は強い感情を添付されて記憶され、既知の出来事になる。言い換えれば、感情が生じた前と後では価値体系が変わったといえる。別の言葉で言えば、学習した。

つまり学習するには、感情の生起が必要である。

以下具体的に感情を考える。

怒り  突然人に押された。未知の出来事に遭遇した。驚きと共に怒りが湧いた。経験が記憶される。この世には突然人を押す人がいるのだ。今後はそれに備えよう。感情の前後で価値体系が変わった。感情の生起によって、価値は組み替えられた。学習した。

もし前もって、この人は私を押す、ということが分かっていれば、怒りは生じなかっただろう。つまり学習効果がある。

恐怖 山道を歩いていると、ヒグマに出くわした。驚きと共に恐怖を感じた。経験が記憶される。こんな山道にはヒグマが出る。これからはここを歩かないようにしよう。価値は組み替えられた。学習した。

もし前もってヒグマと出会うことがかなりの確率で分かっていたら、恐怖を感じなかったか。驚きはもちろん無いだろうが、恐怖は感じるだろう。つまり出会わないための学習効果はあるが、出会ったときは学習効果がない。

嬉しい  突然尊敬する人に褒められた。嬉しい気持ちが湧き上がる。今後そういう経験に備えよう。しかしこれは必要な学習ではない。強く記憶に定着しておく必要もない。何度でも喜べばいいのだから。つまり学習効果はないことになる。

嬉しいは学習するため、不確実性への適応戦略のために手に入れた感情ではなく、関係を強化するために手に入れた感情だと思う。

悲しい  大切な人を突然失った。とても悲しい。大切な人もいつかは死ぬのだということを学習する。悲しみながら、大切な人のいない世界を少しずつ受容していく。

前もって死ぬのが分かってれば、悲しみは生じないか。いや、深く悲しむだろう。つまり同じことがまた起こっても、同じ感情が生起する。その意味で学習効果はない。

悲しいも、嬉しいと同じく関係を強化するために手に入れた感情だと思う。

結論

ヒトが最初に獲得した感情は、fight or flight にかかわる怒りと恐怖だと思う。突然ある状況に遭遇した時、戦う(怒り)か逃げる(恐怖)ことが必要だった。その行動を強化するためにまず怒りや恐怖の感情が創られたのだと思う。(ただ快・不快感情はそれよりずっと以前からあった)

その後、生き残りをかけてより大きな集団を形成する必要に迫られた時、集団形成に有利に働く感情、つまり嬉しい・悲しいを手に入れたのだと思う。

感情の現代的意味

人はそれぞれ価値観を持っている。通常それは固定され変化しない。言い換えれば学習しないということだ。故に学習するには、

1 感情を起動させる。

2 論理を起動させる。(この場合も、分かった、という嬉しい気持ちが生じていると思う。)

ここでは1について考える。分り易くする為に感動に置き換えて考える。問題は感動しようと思っても感動できないことだ。世の中には感動屋さんがいるが、何が違うのか。思いつくままに挙げると、

1 こだわりが少ない。故に多くのものが見える。

2 心に余裕がある。夕焼けの美しさに気付く。

3 世界はこうなっている、という具体的なフレームを持っている。故にそこから外れた事象を見ると、あれっ、と思う。

4 他者の感情を感じて、感動してしまう。

2については、副交感神経優位なのだと思う。

3については、知識の多少はあまり関係なく、世界への態度、つまり、世界はワクワクしたもので満ちているはずだ、という態度が大切なのだと思う。つまり世界を肯定的に受け入れている。

1についても3と関係していて、世界に敵対してしまうと、自分を守るためにこだわりで身を固めることになる。 すると多くのものが見えなくなってしまう。故にこだわりが少ないとは、世界を肯定的に受け入れていることだと思う。

4については、経験の多少はあまり関係がない。相手の気持ちが分かってしまい、共感してしまう。熱を出したことのない人は、高熱でうなされている人の気持ちはわからないだろう。これは経験に依る。一生懸命に生きてる人の姿を見れば、思わず感動してしまう。大切なのは、経験の多少より、共感能力の多少だ。つまり経験が多くても共感能力が低ければ、感動は起らない。つまり相手の中に大切な自分を見れるか。となると結局、自己肯定感の問題になる。

ただ共感による感動は、感動の前後で価値変容が起こってないように思う。間をおいて同じものを見れば、やはり思わず感動してしまうだろう。故に学習効果がないので、ここでは除外する。

以上、感情の現代的意味の一つは、学習するのに利用できることだが、自発的に感情を生起させるのは難しいので、それを起こり易くするためには、

1 副交感神経優位を保つ。これはすぐにでもできるだろう。

2 世界を肯定的に受け入れる。これは自己肯定感を高めるしかないので、時間がかかる。

ここではわずかの種類の感情だけで考えた。いろんな感情で考えても、楽しめると思う。

頭の中での一人会話 病気・怪我と一人会話の関係

先日、食中毒になったのだけれど、昨日気が付くと、頭の中で当時の状況を一生懸命に説明していた。あたかも誰かがいるように、説明していた。

何故そんなことをしていたのだろう。結構痛かったので、誰かに聞いてもらって、共感して欲しかったのだろう。

床に伏している間、ずっと何かが蓄積して、それを解放させたかったのだと思う。何が蓄積していたのだろう。不安?心配? 

考えてみると、孤独に耐えて、一人で頑張ってきたという感情だと思う。そして、それが共感されたときの気持ちは多分、気丈に振舞っていた子供が、親に抱き上げられた時、ホッとして泣き出すような感じに似ていると思う。

つまり誰の力も借りれない孤独の状況で、不安だけど、気を抜くことができなかった。

病気や怪我は結局は誰の力も借りず、自分で向き合うしかない。そういう意味で孤独である。気を抜くことができないとは、外界の侵害と対峙していた、臨戦態勢にあった、つまり緊張していたと言うことだ。単純化すれば、孤独と緊張。孤独と緊張が何かを積み上げたのだと思う。

緊張は孤独ゆえに生じたので、根本原因は孤独ということになる。

以上、孤独により緊張が持続すると、何かが蓄積してそれを解放させたくなる。通常は共感してもらう、慰めてもらって解消させるのだが、相手がいない場合に代用されるのが、一人語りなのだろう。

追記

大きく捉えれば、現代人の生活は孤独であると思う。自己責任意識が強いので、病気や怪我と同じく、結局は誰の力も借りれずに、自分で向き合うしかないからだ。孤独であれば緊張が導かれ、上記と同じ構図になる。つまり現代は、怪我や病気の時だけではなく、日常生活においても孤独と緊張を強いられていることになる。であるならなおさら話相手の存在が重要になるだろう。

頭の中での一人会話 病気・怪我と一人会話の関係

先日、食中毒になったのだけれど、昨日気が付くと、頭の中で当時の状況を一生懸命に説明していた。あたかも誰かがいるように、説明していた。

 

何故そんなことをしていたのだろう。結構痛かったので、誰かに聞いてもらって、共感して欲しかったのだろう。

床に伏している間、ずっと何かが蓄積して、それを解放させたかったのだと思う。何が蓄積していたのだろう。不安?心配? 

考えてみると、孤独に耐えて、一人で頑張ってきたという感情だと思う。そして、それが共感されたときの気持ちは多分、気丈に振舞っていた子供が、親に抱き上げられた時、ホッとして泣き出すような感じに似ていると思う。

つまり誰の力も借りれない孤独の状況で、不安だけど、気を抜くことができなかった。

病気や怪我は結局は誰の力も借りず、自分で向き合うしかない。そういう意味で孤独である。気を抜くことができないとは、外界の侵害と対峙していた、臨戦態勢にあった、つまり緊張していたと言うことだ。単純化すれば、孤独と緊張。孤独と緊張が何かを積み上げたのだと思う。

緊張は孤独ゆえに生じたので、根本原因は孤独ということになる。

 

以上、孤独により緊張が持続すると、何かが蓄積してそれを解放させたくなる。通常は共感してもらう、慰めてもらって解消させるのだが、相手がいない場合に代用されるのが、一人語りなのだろう。

 

追記

 

大きく捉えれば、現代人の生活は孤独であると思う。自己責任意識が強いので、病気や怪我と同じく、結局は誰の力も借りれずに、自分で向き合うしかないからだ。孤独であれば緊張が導かれ、上記と同じ構図になる。つまり現代は、怪我や病気の時だけではなく、日常生活においても孤独と緊張を強いられていることになる。であるならなおさら話相手の存在が重要になるだろう。

病気になるということ 病気は人生に何をもたらすか

先日、生焼けの鮭を食べて食中毒になった。 多分原因は腸炎ビブリオだと思う。

 

快方に向かい、食欲が出てきた時、和食の朝食をどうしても食べる気が起こらなかった。 それから数日後の今も、サンドイッチを食べ続けている。 前回サルモネラ菌で食中毒になった時は、それまで食べ続けていた朝食のパンを止めて和食に変えたのだけれど。

 

床に伏している時、強く湧き上がってきた思いがある。 このばかげた自己規制を捨ててやるという思いだ。 そのとき頭に思い浮かんでいたのは、行きたい所へも我慢していかず、食べたいものも我慢して食べず、買いたい物も我慢して買ってなかった。

なぜ行きたいところにもっと行っておかなかったのだろう。なぜもっと何々しておかなかったのだろう。 

 

ところで、人は今際の際に深い後悔に襲われると言う。 人目なんか気にせずにもっとしたいことをしておけばよかった、と。

 

もちろん死ぬ気は全くなかったが、腹痛に耐え、食欲もなく、動くこともままならず、布団の中でただ横たわって苦しんでいると、今までのつまらないこだわりが途方もなく馬鹿げたことのように思えて来たのだ。

 

病気は今までの人生を振り返る契機になると思う。 大切なのは動けない、つまり床に伏していることだと思う。 動けなければすることもなく、あれこれととりとめもないことを考えてしまう。 その中から自分の人生を振り返るきっかけが生まれ、現在の不自由な状態が、我慢してきた過去を思い起こさせる。そして、もっと何々しておけば良かった、と思う。結果、よし良くなったらもっと何々してやろう、と行動変容・価値変容を促すのだと思う。つまり病気は人生の未知の扉を開く力があると思う。

 

追伸

 

今際の際の感情は、自己規制への深い後悔と取り返しのつかなさ、であるのに対し、病気では、自己規制への怒りと未来への希望、とそれぞれの感情は異なるが、共通するのは、動けない、振り返って考える、人生を俯瞰する、ところだ。だとしたら、不自由状態で人生を俯瞰したら、必ず反省が起きて、価値変容が起こるのだろうか。

生きていくうえで、たとえ無意識であるにしても人は常に我慢を強いられている。対人関係はもちろん、対自然に置いても、暑い、寒い、痛い、痒い等々。であるなら、我慢は別のものを優先した結果として生じた状態だから、優先度を変えることによって我慢の多少を変えることができる。そこに反省の契機がある。そして反省とは思考する事である。

話が飛躍するが、逆に言えば、我慢が反省を生み、反省がヒトの大脳新皮質の発達を補強した、と言えるかもしれないと思う。

病気になるということ 病気は人生に何をもたらすか

先日、生焼けの鮭を食べて食中毒になった。 多分原因は腸炎ビブリオだと思う。

快方に向かい、食欲が出てきた時、和食の朝食をどうしても食べる気が起こらなかった。 それから数日後の今も、サンドイッチを食べ続けている。 前回サルモネラ菌で食中毒になった時は、それまで食べ続けていた朝食のパンを止めて和食に変えたのだけれど。

床に伏している時、強く湧き上がってきた思いがある。 このばかげた自己規制を捨ててやるという思いだ。 そのとき頭に思い浮かんでいたのは、行きたい所へも我慢していかず、食べたいものも我慢して食べず、買いたい物も我慢して買ってなかった。

なぜ行きたいところにもっと行っておかなかったのだろう。なぜもっと何々しておかなかったのだろう。

ところで、人は今際の際に深い後悔に襲われると言う。 人目なんか気にせずにもっとしたいことをしておけばよかった、と。

もちろん死ぬ気は全くなかったが、腹痛に耐え、食欲もなく、動くこともままならず、布団の中でただ横たわって苦しんでいると、今までのつまらないこだわりが途方もなく馬鹿げたことのように思えて来たのだ。

病気は今までの人生を振り返る契機になると思う。 大切なのは動けない、つまり床に伏していることだと思う。 動けなければすることもなく、あれこれととりとめもないことを考えてしまう。 その中から自分の人生を振り返るきっかけが生まれ、現在の不自由な状態が、我慢してきた過去を思い起こさせる。そして、もっと何々しておけば良かった、と思う。結果、よし良くなったらもっと何々してやろう、と行動変容・価値変容を促すのだと思う。つまり病気は人生の未知の扉を開く力があると思う。

追伸

今際の際の感情は、自己規制への深い後悔と取り返しのつかなさ、であるのに対し、病気では、自己規制への怒りと未来への希望、とそれぞれの感情は異なるが、共通するのは、動けない、振り返って考える、人生を俯瞰する、ところだ。だとしたら、不自由状態で人生を俯瞰したら、必ず反省が起きて、価値変容が起こるのだろうか。

生きていくうえで、たとえ無意識であるにしても人は常に我慢を強いられている。対人関係はもちろん、対自然に置いても、暑い、寒い、痛い、痒い等々。であるなら、我慢は別のものを優先した結果として生じた状態だから、優先度を変えることによって我慢の多少を変えることができる。そこに反省の契機がある。そして反省とは思考する事である。

話が飛躍するが、逆に言えば、我慢が反省を生み、反省がヒトの大脳新皮質の発達を補強した、と言えるかもしれないと思う。

ホームレスと心失者

DaiGo氏がホームレスは死んだ方がいいと言ったらしい 

植松聖死刑囚は"心失者"は生きている価値が無いと言った。

私の考えをまとめてみた。


社会の特性  

社会は全体でバランスが取れているので、ある一部が気に入らないからといって、それを除去することができない。 もしそれを除去するのであれば、なぜそれが存在しているのかと言う理由を見つけだし、全体を変えることによってその部分を除去する必要がある。 


例えば、以下は古典的なセオリーだが、公共事業は、景気の調節弁として政策に使われる。 景気が悪い時は、政府は景気を良くするために公共事業の支出を増大する。 景気が良くなれば、公共事業の支出を減少させる。 それに合わせて雇用も増大と減少を繰り返す。 当然そこで働く人たちも就労と失業を繰り返す。 政府の政策は彼らの存在を前提として行われている。逆に言えば、彼らの存在がなければこの政策はうまく働かない。


生産性のない人について

共同体とは皆で支えるものである。 共同体に貢献する人は共同体にとって良い人である。 共同体にゆとりがある時は、顔なじみでもある、共同体に貢献しない人を養うことができる。 しかし共同体に余裕がなくなり人々が生き残るのがやっとの時、自分が生き残るのに役に立たない人のことを考慮しない。 誰と組めば生き残れるかという生存戦略で行動する。 

考える必要があることは,今がその時なのか、ということだ。 どこにも餓死者は出ていない。 生きるか死ぬかの非常事態はどこにも無い。

ではどういう時が非常事態なのか。 個人から見れば、そういうことさえ思いつかない時が非常事態なのだと思う。 本当に非常事態になれば体が先に動いているだろう。


ではなぜ生産性だけで人の価値を判断しようとする風潮が出てくるのか。

共同体が解体し、人々は孤立し、鬱屈し、追い詰められ、精神的に非常事態モードになっているからだと思う。


補足


仲間と他人  

仲間であればその言動の理由が推測できる。 ホームレスは死んだ方がいいと言ったとしても、その生い立ちや経験、日頃の言動を知っていれば、どうしてそんなことを言ってしまったのか、その理由を推測できるし、その真意を直接尋ねることもできる。 そしてその発言故にその人を全否定することもありえない。

見知らぬ他人の発言は、その生い立ちや経験を知らないが故に、その発言からその人の全人格を判断してしまう。 故にある発言をもって全否定が起こってしまう。 

人類の歴史の中では、見知らぬ人との出会いはごく限られた場面でのみ起こり、人生のほぼすべてを顔見知りの人達だけで暮らしてきた 。

見知らぬ人との接し方を、私たちはまだ獲得していないのだと思う。 故にリテラシー・学習が必要なのだと思う。 


他者を判断すること

もし私がその人だったらどうするか、どう感じるか。 

これが人と接する時のルールだと思う。 もしある人が私と違う言動を取った時は、なぜなのかを考える。 人は意識の上では合理的に判断しているので、ある言動には必ず合理的な判断がある。 それは私たちにも理解可能なはずだ。 

ならばある人が、ホームレスは死んだ方がいい、と言った時、なぜその人はそういう判断をしたのかを理解しようとする態度が大切だと思う。 

ホームレスを見たときも同じで、もし環境が同じなら、私もホームレスになる可能性があった、と想像することが大切だと思う。


知人を判断すること

知人と接する時、相手の生産性が高いか低いかは、直接自分に利害をもたらさない。故にあまり気にしない。 

どれだけ侵害しないか、どれだけ承認を与えてくれるか、が大切になる。 つまり知人を判断する時に大切なのは生産性ではなく人柄だ。  


生産性が高いことと役に立つこと

生産性が高いとは大きな付加価値を生み出すということで、通常は金銭に換算され、たくさん稼ぐ、という意味になる。たくさん稼ぐということは、多くの人が欲しくなるものを作ったということで、社会に貢献している。

役に立つとは、例えば親にとって子供は生産性は高くはないが、喜びを与えてくれ、人生を豊かにする、という意味で社会に貢献している。


社会または共同体の維持

社会は皆で支えていく必要がある。 生産性至上主義の人の発言を聞いていると、社会は所与の前提で、そこからどれだけの利益を引き出せるかを重視している。 もちろん社会から利益を引き出すことは大切だが、社会が弱体化してはどうしようもない。 社会を維持する努力が失われれば脆弱なものになり、維持費用がかさみ、利益を引き出しにくくなる。

利他行為がなければ、家族でさえ成り立たない。