imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

小林秀雄の『無常ということ』

本居宣長に興味が湧いて『古事記伝』を読みたいと思ったのだけれど、とっつきが悪いのでとりあえず小林秀雄の『本居宣長』を読み始めた。


ところが本居宣長本人のところまで、なかなかたどり着かない。山鹿素行から始まって伊藤仁斎荻生徂徠賀茂真淵と辿ったあとに漸く本人にたどり着いた。 表現方法も直接的に説明するのではなく、左から近づいたり右から近づいたりとまどろっこしい。


そもそも小林秀雄とはどんな人なのだろう、と興味が湧いて、彼の有名な評論『無常ということ』を読んでみた。


前置き   

1942年6月39歳の時に発表された非常に短い文章である。全文を読むのに5分もかからない。 この年の6月5日から7日にかけてミッドウェー海戦が行われている。  


本文意訳  

『生死無常なのでこの世のことはどうでも良い、来世を助けてください』(古典より引用)


景色をぼんやり眺めていると、突然この短文が絵巻物のように心に浮かび、ひどく心が動いた。 その時はただ或る満ち足りた時間があったことを思い出していただけだった。 その時間は、自分が生きている証拠だけが充満していた。 


歴史ヘの新しい解釈は不要である。 歴史は動かし難く美しい。 解釈を拒絶して動じない。 死人は、はっきりとしっかりとして来る。 生きている人間は、自分のことも他人のことも何を考えているか分からない。 一種の動物のようなものだ。 


記憶だけで頭をいっぱいにしているから動物にとどまる。心を虚しくして思い出すのが大切だ。 


無常とは動物的状態だ。 無常ということが分かっていないのは、常なるものを見失ったからだ 。


感想

・前置き  

やはりわかりづらい。“ 記憶”と“思い出す”が対照的な意味として使われているが、具体的な説明はない。想像すると、記憶とは生きてる私達が創り出すもので、思い出すは死んで歴史になった人たちが語り掛けてくるもの、だと思う。

他にも、生死無常は仏教用語では人生の儚さを意味するが、ここでは別の意味で使われていることが示唆されている。が、直接の説明はない。


・ 解釈  

無常と常なるものが対比されている。 無常に属するものとして今・解釈・動物状態・記憶があり、常なるものに属するものとしては歴史・堂々として美しい・ありのまま・思い出すがある。

無常とは一般的には儚いことを意味するが、上記の対比を考えるとそれでは意味が合わない。 私は、私欲に翻弄されること、と解釈する。 


批評の内容はある意味明瞭で、私欲を去って心を空っぽにして向かい合えば、常なるもの・歴史の魂を感じることができるのだ、ということだろう。


・分析   

古典からの引用を起点にして無常について述べているのだが、ここには引用した古典に発する二つの流れがある。 

1  古典の中の“生死無常”から、無常ということについて考えた。 生きてる人は私欲に翻弄された一種の動物なのだろう。

2  心を虚しうしていたら、突然或る古典の一節が思い浮かんで歴史の魂に触れた実感を得た。 解釈などせずに心を空っぽにすることこそが大切だ。


この二つは文中、はっきりとは区別されず不明瞭に接続している。そのことが分かりにくさの原因の一つになっている。


さらに、古典から導いたこの二つをつなぐものとして、鴎外や宣長の作品を例にとり、歴史は解釈を拒絶して動じない美しいもの、という経験を述べる。 これによって、生死無常なので生きてる人は一種の動物であるが、幸いなことに歴史は解釈を拒絶して動じないので、心を虚しくすれば歴史の魂に接することができるのだ、とつながることになる。


・疑問

小林秀雄の言いたかったことは、現代から過去の歴史を見る時の心構えだった。 しかし冒頭に引用した古典は、現世を諦めて来世を気にする女の話だ。 現世は儚いのでもう諦めたが、来世はなんとか救われたい、という話だ。心を虚しうすれば来世を見る心構えができる、という内容ではない。この話から過去への類推は不自然な感じがする。あえて批評本文との関連を探せば、生死無常を信じた女がいるだけだ。しかもその生死無常の意味は小林秀雄の意味とはズレている。小林秀雄は生死無常という言葉だけを起点にして、話を進めたように見える。

批評に書いてあるように、本当に景色をぼんやり眺めていたら、突然この古典が心に浮かんだのかもしれない。


・終わりに   

最初に読んだ時は全く意味が取れなかった。 文章の構造も分からなかった。雰囲気だけが伝わった。 悔しかったので時間をかけて真剣に考えてみた。 全く違う読み方があるのかも知れない。 それほどに直接に明示しない表現方法だった。


ただの奇を衒った批評家なのかとも思ったが、調べてみると柄谷行人などそうそうたる人たちが小林秀雄論を書いているので、とりあえず真剣に読んでみることにした。


この批評を読んだ私の印象は、小林秀雄とは父権、強い者に対する反発があるように思う。

また豊かな感覚を持っているが、あまり論理的ではない可能性がある。


小林秀雄の『無常ということ』

本居宣長に興味が湧いて『古事記伝』を読みたいと思ったのだけれど、とっつきが悪いのでとりあえず小林秀雄の『本居宣長』を読み始めた。

ところが本居宣長本人のところまで、なかなかたどり着かない。山鹿素行から始まって伊藤仁斎荻生徂徠賀茂真淵と辿ったあとに漸く本人にたどり着いた。 表現方法も直接的に説明するのではなく、左から近づいたり右から近づいたりとまどろっこしい。

そもそも小林秀雄とはどんな人なのだろう、と興味が湧いて、彼の有名な評論『無常ということ』を読んでみた。

前置き
1942年6月39歳の時に発表された非常に短い文章である。全文を読むのに5分もかからない。 この年の6月5日から7日にかけてミッドウェー海戦が行われている。

本文意訳
『生死無常なのでこの世のことはどうでも良い、来世を助けてください』(古典より引用)

景色をぼんやり眺めていると、突然この短文が絵巻物のように心に浮かび、ひどく心が動いた。 その時はただ或る満ち足りた時間があったことを思い出していただけだった。 その時間は、自分が生きている証拠だけが充満していた。

歴史ヘの新しい解釈は不要である。 歴史は動かし難く美しい。 解釈を拒絶して動じない。 死人は、はっきりとしっかりとして来る。 生きている人間は、自分のことも他人のことも何を考えているか分からない。 一種の動物のようなものだ。

記憶だけで頭をいっぱいにしているから動物にとどまる。心を虚しくして思い出すのが大切だ。

無常とは動物的状態だ。 無常ということが分かっていないのは、常なるものを見失ったからだ 。

感想
・前置き
やはりわかりづらい。“ 記憶”と“思い出す”が対照的な意味として使われているが、具体的な説明はない。想像すると、記憶とは生きてる私達が創り出すもので、思い出すは死んで歴史になった人たちが語り掛けてくるもの、だと思う。
他にも、生死無常は仏教用語では人生の儚さを意味するが、ここでは別の意味で使われていることが示唆されている。が、直接の説明はない。

・ 解釈
無常と常なるものが対比されている。 無常に属するものとして今・解釈・動物状態・記憶があり、常なるものに属するものとしては歴史・堂々として美しい・ありのまま・思い出すがある。
無常とは一般的には儚いことを意味するが、上記の対比を考えるとそれでは意味が合わない。 私は、私欲に翻弄されること、と解釈する。

批評の内容はある意味明瞭で、私欲を去って心を空っぽにして向かい合えば、常なるもの・歴史の魂を感じることができるのだ、ということだろう。

・分析
古典からの引用を起点にして無常について述べているのだが、ここには引用した古典に発する二つの流れがある。
1 古典の中の“生死無常”から、無常ということについて考えた。 生きてる人は私欲に翻弄された一種の動物なのだろう。
2 心を虚しうしていたら、突然或る古典の一節が思い浮かんで歴史の魂に触れた実感を得た。 解釈などせずに心を空っぽにすることこそが大切だ。

この二つは文中、はっきりとは区別されず不明瞭に接続している。そのことが分かりにくさの原因の一つになっている。

さらに、古典から導いたこの二つをつなぐものとして、鴎外や宣長の作品を例にとり、歴史は解釈を拒絶して動じない美しいもの、という経験を述べる。 これによって、生死無常なので生きてる人は一種の動物であるが、幸いなことに歴史は解釈を拒絶して動じないので、心を虚しくすれば歴史の魂に接することができるのだ、とつながることになる。

・疑問
小林秀雄の言いたかったことは、現代から過去の歴史を見る時の心構えだった。 しかし冒頭に引用した古典は、現世を諦めて来世を気にする女の話だ。 現世は儚いのでもう諦めたが、来世はなんとか救われたい、という話だ。心を虚しうすれば来世を見る心構えができる、という内容ではない。この話から過去への類推は不自然な感じがする。あえて批評本文との関連を探せば、生死無常を信じた女がいるだけだ。しかもその生死無常の意味は小林秀雄の意味とはズレている。小林秀雄は生死無常という言葉だけを起点にして、話を進めたように見える。
批評に書いてあるように、本当に景色をぼんやり眺めていたら、突然この古典が心に浮かんだのかもしれない。

・終わりに
最初に読んだ時は全く意味が取れなかった。 文章の構造も分からなかった。雰囲気だけが伝わった。 悔しかったので時間をかけて真剣に考えてみた。 全く違う読み方があるのかも知れない。 それほどに直接に明示しない表現方法だった。

ただの奇を衒った批評家なのかとも思ったが、調べてみると柄谷行人などそうそうたる人たちが小林秀雄論を書いているので、とりあえず真剣に読んでみることにした。

この批評を読んだ私の印象は、小林秀雄とは父権、強い者に対する反発があるように思う。
また豊かな感覚を持っているが、あまり論理的ではない可能性がある。

安らぎと宗教

私のことをあれほど大切にしてくれた人が死んでしまった。 今はもう何も喋らない。 これで終わりだなんて寂しすぎる。

死ねば全てが終わってしまのなら、この苦しみに満ちた一回きりの人生はあまりに不条理で不平等。


一般に宗教と言われるものを信じる入り口はいろいろある。 あの世であろうと輪廻であろうと、死後の世界の提示は人々に安らぎを与える。

※ここで言う宗教とは、中心内容に、存在や因果関係を証明できないものを含んだ考え

別の見方をすれば、人は自分に利益があるものを信じる。 まず安心したいという気持ちがあって、それに合致する考えを受け入れるのだと思う。
その考えに証明不可能なものが含まれていれば宗教、証明可能なものでできていれば科学、になるだろう。

証明はできないけれど人を安心させる考えは、以下の二つがあると思う。

1 死後の世界の存在 たとえこの世が苦しみに満ちていたとしても、死後の世界で安らぎが訪れるのなら、今の苦しみに耐えることができるだろう。 大切な人が死んだとしても、死後の世界で安らかに過ごしていると思えれば、寂しさに耐えることができるだろう。

2 今ここの大きな存在 今がどれほど苦しくても、誰かがずっと見守ってくれていると思えれば、生きる力が湧いてくるだろう。

生きることが苦であるとき、この二つの考えを信じられれば安らぎにつながると思う。

以下余談

・見解の対立があるが、原始仏教は上記の二つともが無かったという意見がある。だとしたら人々を安心させる力が弱かったと思う。 もし勢力拡大を意図したなら、教団後継者たちは上記二つの考えを取り込まざるを得なかっただろう。

・占い師とは未来のことを占う人のことだが、上記二つの事、死後の世界と見守る存在、には関わっていないように思う。占ってもらう人の興味の対象が近未来の現実的利益にあるからだろう。 もし死んだらどうなるかに興味があるのなら、別のところに行くのだろう。

占い師が未来を占う方法は二つある。
1 独力で未来を占う。 つまり超能力者という位置づけだ。 この場合、神の存在は必要がない。

2 大いなるものの力を借りて予知する。 つまり占い師は依り代という位置づけだ。 この場合大いなるものという超自然的な存在を信じていることになる。 卑弥呼やシャーマンはこの位置づけになると思う。

さて大いなるものには主体性があるのだろうか。
1) もしあると考えればそれは必ず因果応報的に働く。 良い行いをすれば悪いことが起こるというのは受け入れられないからだ。 故にもし主体性があるとすれば、良いことをすれば良い報いが起こる、ということになる。 良いことをすれば褒められて、悪いことをすれば罰せられるというのは、家父長的な関係だ。 大規模定住化社会以降ほとんどの社会は父権社会なので、大いなるものとの関係を、自分が属する社会の延長として捉えるのは容易だっただろう。
2)主体性がないと考えれば、つまり見守るだけだということになる。 あえて言えばカウンセラー的関係ということになるが、見守るだけの存在が、依り代を利用して影響力を行使するのは自己矛盾なので、この仮定はありえないことになる。

大いなるものに主体性があるとすれば、それはどのような性格を持ち合わせているのだろうか。 必ず因果応報的に働くとすれば、強い信賞必罰と弱い信賞必罰がありえる。 強い信賞必罰は他の主体性とは同居しにくい。 強い罰を嫌う人々がどちらを信じていいか分からなくなるからだ。 故に強い信賞必罰が一神教を作り出したと思う。

・シャーマンを通して見える大いなるもの
シャーマンとは以下の能力のどれかを持ち合わせていると思う。
1 治療 大いなるもののプラスの力を借りて施術する。 または体にとりついた大いなるもののマイナスの力を追い出す。
2 厄払い 大いなるもののマイナスの力を鎮める。
この二つが同居するシャーマンがいれば、大いなるものはプラスとマイナスの両方の力を持っているという前提になる。 それは因果応報的つまり良い行いをすればプラスの、悪い行いをすればマイナスの力を行使するという考えにつながる。

3 お告げ 未来を教えてもらうこと。 つまり大いなるものは未来を知っていることが前提となっている。
4 祈祷 願いを叶えてもらうこと。 つまり大いなるものは、未来を変える能力があることが前提となっている。
未来を知っていて、かつ未来を変えれるとは、全知全能のことだ。 全知全能は一神教の神の特徴である。 一神教は宗教の中で非常に特殊な宗教だが、シャーマンを通して見える神の能力の中に、すでにその特徴が見えるのが興味深い。

ではその大いなるものは、何ゆえに大いなるものとして認識されるのだろうか。

シャーマンに、1治療や2厄払いの力を与えることができる存在とは、病・火事・地震・暴風雨など、日常生活で禍福を起こす原因となる力を持つと信じられる必要がある。究極的には森羅万象を司る存在としてイメージされるだろう。しかし行使できる力は今に限られる。風神や雷神は、今しか風や雷を起こせない。明日の風は明日になってから起こすのだ。

シャーマンに、3お告げや4祈祷の力を与えることができる存在とは、私たちの願い事を叶える力を持つと信じられる必要がある。究極的には過去から未来までを操作できる全知全能の存在としてイメージされるだろう。

安らぎと宗教

私のことをあれほど大切にしてくれた人が死んでしまった。 今はもう何も喋らない。 これで終わりだなんて寂しすぎる。 


死ねば全てが終わってしまのなら、この苦しみに満ちた一回きりの人生はあまりに不条理で不平等。 



一般に宗教と言われるものを信じる入り口はいろいろある。 あの世であろうと輪廻であろうと、死後の世界の提示は人々に安らぎを与える。 


※ここで言う宗教とは、中心内容に、存在や因果関係を証明できないものを含んだ考え


別の見方をすれば、人は自分に利益があるものを信じる。 まず安心したいという気持ちがあって、それに合致する考えを受け入れるのだと思う。

その考えに証明不可能なものが含まれていれば宗教、証明可能なものでできていれば科学、になるだろう。 


証明はできないけれど人を安心させる考えは、以下の二つがあると思う。


1 死後の世界の存在  たとえこの世が苦しみに満ちていたとしても、死後の世界で安らぎが訪れるのなら、今の苦しみに耐えることができるだろう。 大切な人が死んだとしても、死後の世界で安らかに過ごしていると思えれば、寂しさに耐えることができるだろう。


2 今ここの大きな存在  今がどれほど苦しくても、誰かがずっと見守ってくれていると思えれば、生きる力が湧いてくるだろう。


生きることが苦であるとき、この二つの考えを信じられれば安らぎにつながると思う。


以下余談


・見解の対立があるが、原始仏教は上記の二つともが無かったという意見がある。だとしたら人々を安心させる力が弱かったと思う。 もし勢力拡大を意図したなら、教団後継者たちは上記二つの考えを取り込まざるを得なかっただろう。


・占い師とは未来のことを占う人のことだが、上記二つの事、死後の世界と見守る存在、には関わっていないように思う。占ってもらう人の興味の対象が近未来の現実的利益にあるからだろう。 もし死んだらどうなるかに興味があるのなら、別のところに行くのだろう。 


 占い師が未来を占う方法は二つある。

1  独力で未来を占う。 つまり超能力者という位置づけだ。 この場合、神の存在は必要がない。


2  大いなるものの力を借りて予知する。  つまり占い師は依り代という位置づけだ。 この場合大いなるものという超自然的な存在を信じていることになる。 卑弥呼やシャーマンはこの位置づけになると思う。 


さて大いなるものには主体性があるのだろうか。

1) もしあると考えればそれは必ず因果応報的に働く。 良い行いをすれば悪いことが起こるというのは受け入れられないからだ。 故にもし主体性があるとすれば、良いことをすれば良い報いが起こる、ということになる。 良いことをすれば褒められて、悪いことをすれば罰せられるというのは、家父長的な関係だ。 大規模定住化社会以降ほとんどの社会は父権社会なので、大いなるものとの関係を、自分が属する社会の延長として捉えるのは容易だっただろう。

2)主体性がないと考えれば、つまり見守るだけだということになる。 あえて言えばカウンセラー的関係ということになるが、見守るだけの存在が、依り代を利用して影響力を行使するのは自己矛盾なので、この仮定はありえないことになる。


大いなるものに主体性があるとすれば、それはどのような性格を持ち合わせているのだろうか。 必ず因果応報的に働くとすれば、強い信賞必罰と弱い信賞必罰がありえる。 強い信賞必罰は他の主体性とは同居しにくい。 強い罰を嫌う人々がどちらを信じていいか分からなくなるからだ。 故に強い信賞必罰が一神教を作り出したと思う。


・シャーマンを通して見える大いなるもの

シャーマンとは以下の能力のどれかを持ち合わせていると思う。

1 治療  大いなるもののプラスの力を借りて施術する。 または体にとりついた大いなるもののマイナスの力を追い出す。

2 厄払い  大いなるもののマイナスの力を鎮める。

この二つが同居するシャーマンがいれば、大いなるものはプラスとマイナスの両方の力を持っているという前提になる。 それは因果応報的つまり良い行いをすればプラスの、悪い行いをすればマイナスの力を行使するという考えにつながる。


3 お告げ  未来を教えてもらうこと。 つまり大いなるものは未来を知っていることが前提となっている。

4 祈祷  願いを叶えてもらうこと。 つまり大いなるものは、未来を変える能力があることが前提となっている。

未来を知っていて、かつ未来を変えれるとは、全知全能のことだ。 全知全能は一神教の神の特徴である。 一神教は宗教の中で非常に特殊な宗教だが、シャーマンを通して見える神の能力の中に、すでにその特徴が見えるのが興味深い。


ではその大いなるものは、何ゆえに大いなるものとして認識されるのだろうか。


シャーマンに、1治療や2厄払いの力を与えることができる存在とは、病・火事・地震・暴風雨など、日常生活で禍福を起こす原因となる力を持つと信じられる必要がある。究極的には森羅万象を司る存在としてイメージされるだろう。しかし行使できる力は今に限られる。風神や雷神は、今しか風や雷を起こせない。明日の風は明日になってから起こすのだ。


シャーマンに、3お告げや4祈祷の力を与えることができる存在とは、私たちの願い事を叶える力を持つと信じられる必要がある。究極的には過去から未来までを操作できる全知全能の存在としてイメージされるだろう。


コーヒーの淹れ方

先月2月に体調を崩して以降、回復後もコーヒーを飲まなくなった。
今までの試行錯誤の結果をここに書き記しておきたい。

私が好きなコーヒーの味はフレッシュな酸味やフルーティーな香りではなく、コクと苦味が利いた深い味である。以下はその味を得るための抽出方法だ。

ミルは標準か少し細めが良い。 少し細く挽いたほうがコクが出る。

湯温は82℃から85℃の間が良い。上手く焙煎された豆なら82℃のほうが複雑な味がする。じょうろ型の先の長いポットは2度ほど湯温が下がるので、それを見越して温度を調整する必要がある。
90°Cで注湯するという専門家がいるが私は全く信じない。

垂らし始めから測る蒸らし時間は60秒。 短いと苦味が強くなる。

抽出時間は1分から2分の間。 ベストな時間は焙煎豆によってばらつきがある。 短時間だと苦味が強く、長時間だとコクが出てくるが、嫌味も増える。

20年以上にわたって毎朝統計を取り続けてきたが、結局分かったことは上記のことでしかなかった。
昨日と全く同じように入れたつもりでも、全く味の違うコーヒーが入り、コーヒー豆からは挑戦され、翻弄され続けた。

障害者のヘルパーと労働組合

障害者自立生活運動という障害者主体の運動がある。 両親に介護されるのではなく、地域に住んでヘルパーを利用しながら自立した生活を送ろうという運動だ。
運動の経緯から、障害者たち自らが集まってヘルパー派遣事業を NPO 法人として立ち上げていることがよくある。 当然だが理事長は障害者、役員も過半数が障害者だ。

事業所従業員や派遣されるヘルパー労働者が、待遇の改善を求めて労働運動する、労働組合を立ち上げることは不思議ではない。

しかしここに障害者とヘルパーならではの問題があると思う。

役員は障害者である。 事業所の方針を決める重要な話し合いは役員同士でする。 身体障害者であればヘルパーが常にそばにいる。 つまりヘルパーが重要な話の内容を聞いてしまう可能性があるのだ。
もしそのヘルパーが組合活動者だったらどうだろう。 もちろんヘルパー労働時に聞き得た情報は守秘義務が生じる。 だが一人の人間の中で、本来の自分の主張と、聞いてしまった大切な情報を分けて考えることができるだろうか。
さらに障害者とヘルパーは信頼関係が大切だと思うが、役員障害者は組合ヘルパーを安心して信じることができるだろうか。生きていく上で必須のヘルパーを信じられない。そういう両者の関係は不幸であると思う。

以上の事を考えると、役員障害者のヘルパーは労働組合に加入してその恩恵をもちろん被っていいのだけれど、組合の方針を決めるような場には出席しない方が良いと思う。

障害者のヘルパーと労働組合

障害者自立生活運動という障害者主体の運動がある。 両親に介護されるのではなく、地域に住んでヘルパーを利用しながら自立した生活を送ろうという運動だ。

運動の経緯から、障害者たち自らが集まってヘルパー派遣事業を NPO 法人として立ち上げていることがよくある。 当然だが理事長は障害者役員も過半数が障害者だ。


事業所従業員や派遣されるヘルパー労働者が、待遇の改善を求めて労働運動する、労働組合を立ち上げることは不思議ではない。


しかしここに障害者とヘルパーならではの問題があると思う。


役員は障害者である。 事業所の方針を決める重要な話し合いは役員同士でする。 身体障害者であればヘルパーが常にそばにいる。 つまりヘルパーが重要な話の内容を聞いてしまう可能性があるのだ。 

もしそのヘルパーが組合活動者だったらどうだろう。 もちろんヘルパー労働時に聞き得た情報は守秘義務が生じる。 だが一人の人間の中で、本来の自分の主張と、聞いてしまった大切な情報を分けて考えることができるだろうか。

さらに障害者とヘルパーは信頼関係が大切だと思うが、役員障害者は組合ヘルパーを安心して信じることができるだろうか。生きていく上で必須のヘルパーを信じられない。そういう両者の関係は不幸であると思う。


以上の事を考えると、役員障害者のヘルパーは労働組合に加入してその恩恵をもちろん被っていいのだけれど、組合の方針を決めるような場には出席しない方が良いと思う。

コーヒーの淹れ方

先月2月に体調を崩して以降、回復後もコーヒーを飲まなくなった。

今までの試行錯誤の結果をここに書き記しておきたい。


私が好きなコーヒーの味はフレッシュな酸味やフルーティーな香りではなく、コクと苦味が利いた深い味である。以下はその味を得るための抽出方法だ。


ミルは標準か少し細めが良い。 少し細く挽いたほうがコクが出る。


湯温は82℃から85℃の間が良い。上手く焙煎された豆なら82℃のほうが複雑な味がする。じょうろ型の先の長いポットは2度ほど湯温が下がるので、それを見越して温度を調整する必要がある。

90°Cで注湯するという専門家がいるが私は全く信じない。


垂らし始めから測る蒸らし時間は60秒。 短いと苦味が強い味になる。


抽出時間は1分から2分の間。 ベストな状態は焙煎豆によってばらつきがある。 短時間だと苦味が強く、長時間だとコクが出てくるが、嫌味も増える。


20年以上にわたって毎朝統計を取り続けてきたが、結局分かったことは上記のことでしかなかった。

昨日と全く同じように入れたつもりでも、全く味の違うコーヒーが入り、コーヒー豆からは挑戦され、翻弄され続けた。

食べたいものが食べれる幸せ

先日食中毒になった。 腹部の激痛から解放されて、布団の中でぼんやりと横たわっている時、突然魚の干物が無性に食べたくなった。 他に何か食べたいものはあるかなと考えると、思い浮かんだのは、かえしの利いたそばつゆにつけたそばと筑前煮、魚の天ぷらだった。
普通の食事ができるようになってからまだ4日しか経っていないが、すでに干物とそば、筑前煮は食べた。 家で魚の天ぷらを揚げる程まだ元気ではないので、近々近所のてんやに行って天丼を食べようと思っている。

あの時、私が布団の中で願ったことがもうすぐ全て叶う。 たとえ食事という簡単なこととは言え、願った事が叶う環境にいる人たちが世界にどれほどいるだろう。日本は非常に幸せな国だと思う。
食べたいものが食べれる幸せをしみじみと感じていたいと思う。

食べたいものが食べれる幸せ

先日食中毒になった。 腹部の激痛から解放されて、布団の中でぼんやりと横たわっている時、突然魚の干物が無性に食べたくなった。 他に何か食べたいものはあるかなと考えると、思い浮かんだのは、かえしの利いたそばつゆにつけたそばと筑前煮、魚の天ぷらだった。 

普通の食事ができるようになってからまだ4日しか経っていないが、すでに干物とそば、筑前煮は食べた。 家で魚の天ぷらを揚げる程まだ元気ではないので、近々近所のてんやに行って天丼を食べようと思っている。


あの時、私が布団の中で願ったことがもうすぐ全て叶う。 たとえ食事という簡単なこととは言え、願った事が叶う環境にいる人たちが世界にどれほどいるだろう。日本は非常に幸せな国だと思う。

食べたいものが食べれる幸せをしみじみと感じていたいと思う。