imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

自尊心と自己肯定感とその高め方

1 自尊心は他者との関係の中での自分への評価に関わる。 評価には部分評価と全体評価がある。

1)まず部分評価。 自分の能力を他人と比べてする評価のことだ。(性格評価もあり得るが自尊心にはほとんど関わらない。性格は変えることができるという意識もあるだろうし、1つの性格でもプラスとマイナスの評価が出来るからだろう) あの人の方が私より面白い。 あの人の方が私より頭の回転が速い。 あの人の方が私より仕事ができる。

このような低い能力評価をどうやって乗り越えるか。

まず人と比べて勝ち負けを意識するのは無意味である。 前提条件が違うからだ。

(詳しくは以前のブログ

https://hiroto-pilato.at.webry.info/202012/article_2.htm )

次に、具体的に考えてみると、管理職ではない現場労働者が、周囲と比べて、自分は仕事ができない、と感じていたとする。 この場合の能力とは実質的には、次に必要なことを予想して準備する能力だろう。 大雑把に言えば20~30分後のことを予想する能力だ。 これは現場労働をするのに大切な能力だが、多くの能力の一つにすぎず、自分の価値を大きく損なうものではないだろう。 経営者や管理者に必要とされる能力でもない。 故に自ら進んで自分の価値を下げる必要はないと思う。 だとしても、自分は仕事ができないやつだ、という劣等感から自由になれなときはどうするか。 上記で乗り越えられなければ次は自己肯定感の領域に入る。

2)次に全体評価。 他者との関係の中で育む自分への全体の評価だ。

具体的には、やましいことはしていない、世間に胸を張って生きてたとか、卑怯な奴だとか、情けない奴だとか。 最終的にこの評価は大切な人たちとの関係で決まる。 大切な人たちを大切にできたか否かだ。抽象化すれば利己ではなく利他に生きれたか。 大切な人たちを大切にできなければ自分だけを大切にするしかない。 関係を大切にせず、大切な人たちの存在を大切にしない利己行為は当然自己評価を下げる。

社会の中で見れば、相手が利他に振る舞わないと前提すれば,こちらが利他に振る舞う動機付けを失う。それは社会の基盤を崩していく。

この低くなった自己評価をどうやって乗り越えるか。

手っ取り早い方法は、困ってる人を助けるとか、人の嫌がることを率先してすることだ。とりあえずは他者から評価され自己評価が上がる。これを繰り返せば、 関係の大切さが意識され、関係に包まれて生きている自分を感じれるようになる。入り口は以上のような方法が考えられるが、最終的には共感能力によって大切な人たちに自然と利他行為ができるようになることだろう 。

余談

3) 尊厳は、自尊心と似ているが意識された対象は異なる。 尊厳は自由に関わる。選択の自由が与えられてると思えることだ。自分が生きている社会・世界への操作可能感だ 。

1))社会的に見ると、尊厳は権力を変えることができると信じれことによって支えられている。(社会に権力は不可避 以下を参考にしてくださいhttps://bblog.sso.biglobe.ne.jp/cms/article/edit/input?id=39185671 )

2))社会の外も含めた世界から見ると、自分は世界を改変できると信じれることによって尊厳は支えられている。 自分が存在する世界への操作可能感。これは世界への一体感によって感じられる自己肯定感とつながっている。

尊厳死とは自分の最低限の生に対する操作可能感を社会が尊重することだ。

2 自己肯定感 自己肯定感は評価になじまない。 自分の存在そのものに対する受容感だ。

それは世界と自分との関係に関わる。 世界と自分が断絶していれば、世界は自分を受容していないと感じるだろう。つまり世界からの疎外を感じる。視点を変えれば自分は世界を受容しているかどうか。 これが自己肯定感を形作る。 つまり世界は自分を受容しているのか、もしくは自分は世界と一体感を感じれるのか、が重要なのだ。

この感覚が希薄な場合どうやって乗り越えることができるのだろうか。

根源的な感覚なので、これを変えるハードルは高い。

尊厳のところでも触れたが、鍵は世界と自分の関係だ。世界は自分で変えられる、世界と自分は対立するところがない、世界と自分は一体である、世界の中心に自分はいる。以上のような関係を世界と持てれば、結果として自分の存在を受容していることになる。世界は自分を侵害するものではなく、共にあるという感覚を持つことだ。

乗り越える具体策は、論理的には矛盾した方法だが、自分が世界に価値を与えることによって、世界に自分の価値を支えてもらうことだ。

具体的には、萌えるような朝日を感じ、一生懸命に生きている虫たちを感じ、日々移りゆく植物たちを感じ、雲の雄大さを感じ、夕焼けの美しさを感じる。そしてその素晴らしい世界の中に今いる自分を感じる。

自己肯定感の乗り越え方は、今のところこれしか思いつかない。

自尊心と自己肯定感とその高め方

1 自尊心は他者との関係の中での自分への評価に関わる。 評価には部分評価と全体評価がある。
1)まず部分評価。 自分の能力を他人と比べてする評価のことだ。(性格評価もあり得るが自尊心にはほとんど関わらない。性格は変えることができるという意識もあるだろうし、1つの性格でもプラスとマイナスの評価が出来るからだろう) あの人の方が私より面白い。 あの人の方が私より頭の回転が速い。 あの人の方が私より仕事ができる。
このような低い能力評価をどうやって乗り越えるか。
まず人と比べて勝ち負けを意識するのは無意味である。 前提条件が違うからだ。
(詳しくは以前のブログ
https://hiroto-pilato.at.webry.info/202012/article_2.htm )
次に、具体的に考えてみると、管理職ではない現場労働者が、周囲と比べて、自分は仕事ができない、と感じていたとする。 この場合の能力とは実質的には、次に必要なことを予想して準備する能力だろう。 大雑把に言えば20~30分後のことを予想する能力だ。 これは現場労働をするのに大切な能力だが、多くの能力の一つにすぎず、自分の価値を大きく損なうものではないだろう。 経営者や管理者に必要とされる能力でもない。 故に自ら進んで自分の価値を下げる必要はないと思う。 だとしても、自分は仕事ができないやつだ、という劣等感から自由になれなときはどうするか。 上記で乗り越えられなければ次は自己肯定感の領域に入る。

2)次に全体評価。 他者との関係の中で育む自分への全体の評価だ。
具体的には、やましいことはしていない、世間に胸を張って生きてたとか、卑怯な奴だとか、情けない奴だとか。 最終的にこの評価は大切な人たちとの関係で決まる。 大切な人たちを大切にできたか否かだ。抽象化すれば利己ではなく利他に生きれたか。 大切な人たちを大切にできなければ自分だけを大切にするしかない。 関係を大切にせず、大切な人たちの存在を大切にしない利己行為は当然自己評価を下げる。

社会の中で見れば、相手が利他に振る舞わないと前提すれば,こちらが利他に振る舞う動機付けを失う。それは社会の基盤を崩していく。
この低くなった自己評価をどうやって乗り越えるか。
手っ取り早い方法は、困ってる人を助けるとか、人の嫌がることを率先してすることだ。とりあえずは他者から評価され自己評価が上がる。これを繰り返せば、 関係の大切さが意識され、関係に包まれて生きている自分を感じれるようになる。入り口は以上のような方法が考えられるが、最終的には共感能力によって大切な人たちに自然と利他行為ができるようになることだろう 。

余談
3) 尊厳は、自尊心と似ているが意識された対象は異なる。 尊厳は自由に関わる。選択の自由が与えられてると思えることだ。自分が生きている社会・世界への操作可能感だ 。
1))社会的に見ると、尊厳は権力を変えることができると信じれことによって支えられている。(社会に権力は不可避 以下を参考にしてくださいhttps://bblog.sso.biglobe.ne.jp/cms/article/edit/input?id=39185671 )
2))社会の外も含めた世界から見ると、自分は世界を改変できると信じれることによって尊厳は支えられている。 自分が存在する世界への操作可能感。これは世界への一体感によって感じられる自己肯定感とつながっている。

尊厳死とは自分の最低限の生に対する操作可能感を社会が尊重することだ。

2 自己肯定感 自己肯定感は評価になじまない。 自分の存在そのものに対する受容感だ。
それは世界と自分との関係に関わる。 世界と自分が断絶していれば、世界は自分を受容していないと感じるだろう。つまり世界からの疎外を感じる。視点を変えれば自分は世界を受容しているかどうか。 これが自己肯定感を形作る。 つまり世界は自分を受容しているのか、もしくは自分は世界と一体感を感じれるのか、が重要なのだ。
この感覚が希薄な場合どうやって乗り越えることができるのだろうか。
根源的な感覚なので、これを変えるハードルは高い。
尊厳のところでも触れたが、鍵は世界と自分の関係だ。世界は自分で変えられる、世界と自分は対立するところがない、世界と自分は一体である、世界の中心に自分はいる。以上のような関係を世界と持てれば、結果として自分の存在を受容していることになる。世界は自分を侵害するものではなく、共にあるという感覚を持つことだ。
乗り越える具体策は、論理的には矛盾した方法だが、自分が世界に価値を与えることによって、世界に自分の価値を支えてもらうことだ。
具体的には、萌えるような朝日を感じ、一生懸命に生きている虫たちを感じ、日々移りゆく植物たちを感じ、雲の雄大さを感じ、夕焼けの美しさを感じる。そしてその素晴らしい世界の中に今いる自分を感じる。

自己肯定感の乗り越え方は、今のところこれしか思いつかない。

西ヨーロッパではなぜパンが主食にならないのか または主食とパンと米

主食とはお腹を満たすために、おかずと一緒に咀嚼する固形物と定義する。

米は主食になり得るし、実際ほとんどの米食地域で主食になっている。 伝統的な米食文化地域では、米はすべて主食になっている。 主食になっている米料理の特徴は塩味が付いていないことだ。 塩を感じるほどの味付けをしていないというのは全ての主食に当てはまる。

 

では小麦はどうか。 パンについて言えば過半の地域で主食になっている。 その特徴は無発酵・半発酵であること。インドのナン・パラータ(円盤型パン)、中近東・北アフリカピタパン・円盤型パン。

 

地中海ヨーロッパや西ヨーロッパで食べられている発酵パンはなぜ主食にならないのか。 またはならなかったのか。

人々が貧しかった頃は価格の安い穀類を主食にしていたに違いない。 ヨーロッパは15世紀末から世界の富が流入し始めたので、一部の人たちではあるが、食文化を生み出すには十分な数の人たちが、豊かな食事を取れるようになった 。結果、現在の世界の豊かな人たちの間で進行していること、つまりおかずがメインの食事になっていった。逆に言うと主食の役割が小さくなっていったのだと思う。おかずが食事の中心になり、パンは添え物になった。

そもそも主食にするのであれば、パンを発酵させなかっただろう。 わざわざ手間をかけてパンのかさを高める必要はなかった。 主食の座を降りたからこそふかふかのパン、それだけで美味しいパンが求められたのだと思う。

 

味の付いてない主食の食べ方の特徴はおかずと混ぜ食いすることだ。 例えば米について言えば、おかずの塩辛さに応じてご飯の食べる量を調節する。 貧しい人たちはおかずにたくさんの塩を入れてたくさんのご飯を食べた。 豊かな人達は味の薄いおかずを作ってご飯をあまり食べない。 この進化した形がヨーロッパでのおかずと発酵パンの関係だと思う。

 

以下は体験的な理由付け。

 

中南米や中東やトルコでも米料理はあるが、ピラフのように味付けされている。 つまりそれだけでも食べれるのでおかずと同じ扱いだ。

 

中南米ではトウモロコシで作った塩味のしない無発酵のパンのトルティーヤが主食になっている。 メキシコなどの都市部では発酵パンも食べられるが、味付けご飯の方がより日常的だ 。

インドは大まかに南部は米主食で北部は無発酵のチャパティが主食になっている。 北部にはナンという発酵パンがあるが食べる人は非常に少ない。贅沢品という位置づけだ。北部ではパラータと言うチャパティより分厚い無発酵パンが主流である。しかし発酵パンのナンを食べる時はナンを主食として扱っている。

中近東でも無発酵のチャパティのようなパンを主食としている。 米も食べるが味付けご飯になっている。トルコは発酵パンを主食として食べている。 食堂に行けば食べ放題の発酵パンがかごに盛られている。 米も日常的に食べているが味のついたおかず扱いである。

ロッコでは必ず半発酵パンがおかずに付いてきて主食の扱いだ。

東アフリカでも味付けご飯と共に半発酵パンを食べるところは多い。 他にも穀類を粉にして湯で捏ねた無塩の塊を主食にしているところも多い。

ヨーロッパでは発酵パンが大量に消費されているが主食に位置づけされていない。

寒い地域ではじゃがいもが食べられているがマッシュポテトにすると味付けがされているので主食になリにくい。茹でたものは主食になる。 他に半発酵パンといってよいライ麦パンが食べられている。主食として食べられているようだ。

 

別の視点からのブログ

 

imakokoparadise.hatenadiary.jp

西ヨーロッパではなぜパンが主食にならないのか または主食とパンと米

主食とはお腹を満たすために、おかずと一緒に咀嚼する固形物と定義する。
米は主食になり得るし、実際ほとんどの米食地域で主食になっている。 伝統的な米食文化地域では、米はすべて主食になっている。 主食になっている米料理の特徴は塩味が付いていないことだ。 塩を感じるほどの味付けをしていないというのは全ての主食に当てはまる。

では小麦はどうか。 パンについて言えば過半の地域で主食になっている。 その特徴は無発酵・半発酵であること。インドのナン・パラータ(円盤型パン)、中近東・北アフリカピタパン・円盤型パン。

地中海ヨーロッパや西ヨーロッパで食べられている発酵パンはなぜ主食にならないのか。 またはならなかったのか。
人々が貧しかった頃は価格の安い穀類を主食にしていたに違いない。 ヨーロッパは15世紀末から世界の富が流入し始めたので、一部の人たちではあるが、食文化を生み出すには十分な数の人たちが、豊かな食事を取れるようになった 。結果、現在の世界の豊かな人たちの間で進行していること、つまりおかずがメインの食事になっていった。逆に言うと主食の役割が小さくなっていったのだと思う。おかずが食事の中心になり、パンは添え物になった。
そもそも主食にするのであれば、パンを発酵させなかっただろう。 わざわざ手間をかけてパンのかさを高める必要はなかった。 主食の座を降りたからこそふかふかのパン、それだけで美味しいパンが求められたのだと思う。

味の付いてない主食の食べ方の特徴はおかずと混ぜ食いすることだ。 例えば米について言えば、おかずの塩辛さに応じてご飯の食べる量を調節する。 貧しい人たちはおかずにたくさんの塩を入れてたくさんのご飯を食べた。 豊かな人達は味の薄いおかずを作ってご飯をあまり食べない。 この進化した形がヨーロッパでのおかずと発酵パンの関係だと思う。

以下は体験的な理由付け。

中南米や中東やトルコでも米料理はあるが、ピラフのように味付けされている。 つまりそれだけでも食べれるのでおかずと同じ扱いだ。

中南米ではトウモロコシで作った塩味のしない無発酵のパンのトルティーヤが主食になっている。 メキシコなどの都市部では発酵パンも食べられるが、味付けご飯の方がより日常的だ 。
インドは大まかに南部は米主食で北部は無発酵のチャパティが主食になっている。 北部にはナンという発酵パンがあるが食べる人は非常に少ない。贅沢品という位置づけだ。北部ではパラータと言うチャパティより分厚い無発酵パンが主流である。しかし発酵パンのナンを食べる時はナンを主食として扱っている。
中近東でも無発酵のチャパティのようなパンを主食としている。 米も食べるが味付けご飯になっている。トルコは発酵パンを主食として食べている。 食堂に行けば食べ放題の発酵パンがかごに盛られている。 米も日常的に食べているが味のついたおかず扱いである。
ロッコでは必ず半発酵パンがおかずに付いてきて主食の扱いだ。
東アフリカでも味付けご飯と共に半発酵パンを食べるところは多い。 他にも穀類を粉にして湯で捏ねた無塩の塊を主食にしているところも多い。
ヨーロッパでは発酵パンが大量に消費されているが主食に位置づけされていない。
寒い地域ではじゃがいもが食べられているがマッシュポテトにすると味付けがされているので主食になリにくい。茹でたものは主食になる。 他に半発酵パンといってよいライ麦パンが食べられている。主食として食べられているようだ。

社会と芸術の関係

人は生き延びるために、さらにはより快適に生きるために集団を作ってきた。

集団社会は約束事によって成り立っている。 約束事がなければ社会は成り立たない。 人々が利己に振る舞えば当然社会は成り立たなくなる。 家族内の個々人が利己に振る舞えば家族は崩壊する。

個人から見れば社会は個人の自由を制約する。 関係の中で役割を担わなければならない。

社会がより大きくなって、見知らぬ人と接するようになると、利害による争いが起こらないようにより強制力のある約束事つまりルールが必要になる。

余談だが、権力とはこの約束事・ルールの適用範囲を決め、罪の重さを決める人が持つ力のことだ。ゆえに社会があれば必ず権力は生じる。

この自由の制約が人を鬱屈させ、不全感・欠損感を与える。 つまり社会に属する限り、人は不全感・欠損感から逃れられない。つまり社会は必然的に人を鬱屈させる。

これでは社会が持たないので、社会は個人の全体性を回復する装置を持っている。非日常空間であるお祭りだ。

社会による自由の制約は欠損感を埋め合わせようとする欲求、解放されたい欲求を生む。 その欲求が祭りだけでなく芸術をも生んだのだと思う。

祭りは、身体性重視あえて言えば出力重視で、直接的で能動的体験だ。 こちらはシステムとして社会に組み込まれている。非常に強い解放感を生む

芸術は感覚器重視つまり入力重視で、間接的で受動的体験だ。 芸術は間接的であるがゆえに脳内で身体性を再現する努力が必要になる。

芸術は、不全感を刺激し、全体性の回復を日常の中で後押しする。更に言えば、日常の中で全体性の回復が起こったときに、人はそれを芸術と呼ぶ。

祭りは非日常を立ち上げるが、芸術は日常の僅かな隙間に非日常を立ち上げる。

祭りは体を動かすが、芸術は体を動かさない。

以上、社会は人を必然的に鬱屈させる。それを解消する行為として、祭りと芸術が用意されている。

追記

芸術とは以上のことなので、そういう力を呼び起こす人つまり芸術家はある種の能力を持っていると思うが、芸術で感動する人は欠損感を埋め戻そうとする自然の力が働いているだけなので、芸術愛好家に高尚とかの特別の価値を置く必要はないと思う。喉が渇いた時に水を飲もうとする行為に似ていると思う。

社会と芸術の関係

人は生き延びるために、さらにはより快適に生きるために集団を作ってきた。

集団社会は約束事によって成り立っている。 約束事がなければ社会は成り立たない。 人々が利己に振る舞えば当然社会は成り立たなくなる。 家族内の個々人が利己に振る舞えば家族は崩壊する。


個人から見れば社会は個人の自由を制約する。 関係の中で役割を担わなければならない。
社会がより大きくなって、見知らぬ人と接するようになると、利害による争いが起こらないようにより強制力のある約束事つまりルールが必要になる。

余談だが、権力とはこの約束事・ルールの適用範囲を決め、罪の重さを決める人が持つ力のことだ。ゆえに社会があれば必ず権力は生じる。

この自由の制約が人を鬱屈させ、不全感・欠損感を与える。 つまり社会に属する限り、人は不全感・欠損感から逃れられない。つまり社会は必然的に人を鬱屈させる。
これでは社会が持たないので、社会は個人の全体性を回復する装置を持っている。非日常空間であるお祭りだ。

社会による自由の制約は欠損感を埋め合わせようとする欲求、解放されたい欲求を生む。 その欲求が祭りだけでなく芸術をも生んだのだと思う。

祭りは、身体性重視あえて言えば出力重視で、直接的で能動的体験だ。 こちらはシステムとして社会に組み込まれている。非常に強い解放感を生む
芸術は感覚器重視つまり入力重視で、間接的で受動的体験だ。 芸術は間接的であるがゆえに脳内で身体性を再現する努力が必要になる。
芸術は、不全感を刺激し、全体性の回復を日常の中で後押しする。更に言えば、日常の中で全体性の回復が起こったときに、人はそれを芸術と呼ぶ。

祭りは非日常を立ち上げるが、芸術は日常の僅かな隙間に非日常を立ち上げる。
祭りは体を動かすが、芸術は体を動かさない。

以上、社会は人を必然的に鬱屈させる。それを解消する行為として、祭りと芸術が用意されている。

追記
芸術とは以上のことなので、そういう力を呼び起こす人つまり芸術家はある種の能力を持っていると思うが、芸術で感動する人は欠損感を埋め戻そうとする自然の力が働いているだけなので、芸術愛好家に高尚とかの特別の価値を置く必要はないと思う。喉が渇いた時に水を飲もうとする行為に似ていると思う。

仮説の役割

科学の進展の歴史を振り返れば明らかだが、提出された仮説が現代でも生き残っているのはごくわずかだ。 そのときどきの提出者は最大限論理的に慎重に思考し提出した。 にもかかわらずその多くが否定されてきたのだ。

この視点から見ると、仮説の役割は正しさと言うよりも、その時々の知識体系を揺さぶることにあると私は思う。

慎重に思考して論を進めることはもちろんだが、大切なことは、ある仮説を提出することによって反証する学説を活性化させたり、同意しながらも乗り越えようとする学説を生み出して、知識体系を活性化させることだと思う。それは科学をより進展させることに繋がると思う。

仮説の役割

科学の進展の歴史を振り返れば明らかだが、提出された仮説が現代でも生き残っているのはごくわずかだ。 そのときどきの提出者は最大限論理的に慎重に思考し提出した。 にもかかわらずその多くが否定されてきたのだ。
この視点から見ると、仮説の役割は正しさと言うよりも、その時々の知識体系を揺さぶることにあると私は思う。
慎重に思考して論を進めることはもちろんだが、大切なことは、ある仮説を提出することによって反証する学説を活性化させたり、同意しながらも乗り越えようとする学説を生み出して、知識体系を活性化させることだと思う。それは科学をより進展させることに繋がると思う。

ルポルタージュと時代の変遷

今から30年ぐらい前までは、事実によって真理を語らしめよ、という態度が少なくとも一部の人々の間では共有されていたと思う。

具体的に言えば、なるべく筆者の価値観を入れず、かつ感情も抑えて事実を積み上げることによって筆者の主張を表現する。

読者からすれば、描かれた事実から自分で考えて真理に到達する努力が必要となる。

現在そのようなことが可能な知的レベルの層、もしくはそのような心の余裕のある層がマスとして存在するとは思えない。

読者に自ら考えさせ結論に到達するような文章を書いていては、読者の忍耐が続かずに逃げてしまう。  


私もネットから情報を得るとき、最近は文字情報より、イメージしやすい動画を好むようになっている。  文字を読んでイメージを立ち上げ、動かすことが面倒なのだ。


こういう時代にはルポルタージュも結論まで明示しておかないと読者がついてこないと思う。


ルポルタージュとは社会の改善を意図して事実に即して構成された文章のことだ。

主観をなるだけ排して事実によって表現するという手法は、その方がより説得力が増すから採用された手法だと思う。

しかしその目的はすでに有効ではなくなっている。説得力云々よりも、そもそも読まれなくなってしまう。 故に手法を変えて良いのだ。

かってのような手法のルポルタージュはすでに死語になっているかもしれない。

ルポルタージュと時代の変遷

今から30年ぐらい前までは、事実によって真理を語らしめよ、という態度が少なくとも一部の人々の間では共有されていたと思う。
具体的に言えば、なるべく筆者の価値観を入れず、かつ感情も抑えて事実を積み上げることによって筆者の主張を表現する。
読者からすれば、描かれた事実から自分で考えて真理に到達する努力が必要となる。
現在そのようなことが可能な知的レベルの層、もしくはそのような心の余裕のある層がマスとして存在するとは思えない。
読者に自ら考えさせ結論に到達するような文章を書いていては、読者の忍耐が続かずに逃げてしまう。

私もネットから情報を得るとき、最近は文字情報より、イメージしやすい動画を好むようになっている。 文字を読んでイメージを立ち上げ、動かすことが面倒なのだ。

こういう時代にはルポルタージュも結論まで明示しておかないと読者がついてこないと思う。

ルポルタージュとは社会の改善を意図して事実に即して構成された文章のことだ。
主観をなるだけ排して事実によって表現するという手法は、その方がより説得力が増すから採用された手法だと思う。
しかしその目的はすでに有効ではなくなっている。説得力云々よりも、そもそも読まれなくなってしまう。 故に手法を変えて良いのだ。
かってのような手法のルポルタージュはすでに死語になっているかもしれない。