imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

ベルクソンの純粋記憶

私見によると記憶には必ず感情が添付されている。 記憶を取り出す時は記憶に添付された感情をタグとして使っている。
時間の経過によって、記憶された時の状況によって感情のタグが小さくなってゆく。
純粋記憶とは感情のついてない記憶のことだと思う。

目標を決めてお金を貯めるか お金を貯めてから目標を決めるか

価値が保存できる貨幣の出現以前は、まず目標があって、その後目標に向かって行動し、それを達成した。 目標に向かって行動するのだから、行動するほどに目標に近づきウキウキした 。

貨幣の出現後、目標とその達成までに貨幣がワンクッションあいだに入った。 

例えば車を所有するという目標を立てる。 次に労働によってお金を貯める。 その貯めたお金で車を買う。 

これも目標に向かうために労働しているのだから、労働すればするほど目標に近づくので当然ウキウキする。


貨幣の価値保存機能が別の労働動機づけを作り出した。  

目標はないのだが貨幣があれば何とでも交換できるのでとりあえず貯めておこう、と言う動機だ。

目標がないので労働しても目標に近づいていくことはない。 故にウキウキしない。労働に強い動機づけがないのでつまらない。


以上、労働するときは目標を明確に持ったほうが楽しく労働できる。


更に

自分のしている労働が他人の役に立っていると思えるなら、その労働自体が喜びの動機づけになる。


多くの場合一度就職すると長期間の契約になるので、 常に目標を外側に持って労働するのは難しい。故にウキウキし続けるのは難しい。しかし労働自体が他人の役に立っていると思えるならプラスの気持ちで労働に向き合える。

逆に言えば、つまらないと思っている仕事でも他人の役に立っているということを見つけられればプラスの気持ちになれるのだ。

目標を決めてお金を貯めるか お金を貯めてから目標を決めるか

価値が保存できる貨幣の出現以前は、まず目標があって、その後目標に向かって行動し、それを達成した。 目標に向かって行動するのだから、行動するほどに目標に近づきウキウキした 。
貨幣の出現後、目標とその達成までに貨幣がワンクッションあいだに入った。
例えば車を所有するという目標を立てる。 次に労働によってお金を貯める。 その貯めたお金で車を買う。
これも目標に向かうために労働しているのだから、労働すればするほど目標に近づくので当然ウキウキする。

貨幣の価値保存機能が別の労働動機づけを作り出した。
目標はないのだが貨幣があれば何とでも交換できるのでとりあえず貯めておこう、と言う動機だ。
目標がないので労働しても目標に近づいていくことはない。 故にウキウキしない。労働に強い動機づけがないのでつまらない。

以上、労働するときは目標を明確に持ったほうが楽しく労働できる。

更に
自分のしている労働が他人の役に立っていると思えるなら、その労働自体が喜びの動機づけになる。

多くの場合一度就職すると長期間の契約になるので、 常に目標を外側に持って労働するのは難しい。故にウキウキし続けるのは難しい。しかし労働自体が他人の役に立っていると思えるならプラスの気持ちで労働に向き合える。
逆に言えば、つまらないと思っている仕事でも他人の役に立っているということを見つけられればプラスの気持ちになれるのだ。

遺伝子と個体 1補足

バッファゾーンで気になる個体に遭遇した時はどうすればいいのだろう。

ほっておけば明らかに死んでしまう。 可哀想で仕方がない。 


私の住んでるアパートの通路部分の夜灯にコクワガタが飛来することがある。 夜が明けると直射日光が差し込んでセメントの温度をぐんぐん上げる。 電灯の下には昆虫の死骸が散らばっている。 私は我慢できず持ち帰った。 そこにはコガネムシカメムシやガがいたにも関わらずあえてコクワガタだけを助けようとした。 

この後、私ができることは安全と思われる場所に逃がしてやるか、責任を持って最後まで飼うことしかないと思う。


自然の原理に選択的に人の原理を適用するのなら、その部分は最後まで人の原理を適用するしかないと思う。

遺伝子と個体 1補足

バッファゾーンで気になる個体に遭遇した時はどうすればいいのだろう。
ほっておけば明らかに死んでしまう。 可哀想で仕方がない。

私の住んでるアパートの通路部分の夜灯にコクワガタが飛来することがある。 夜が明けると直射日光が差し込んでセメントの温度をぐんぐん上げる。 電灯の下には昆虫の死骸が散らばっている。 私は我慢できず持ち帰った。 そこにはコガネムシカメムシやガがいたにも関わらずあえてコクワガタだけを助けようとした。
この後、私ができることは安全と思われる場所に逃がしてやるか、責任を持って最後まで飼うことしかないと思う。

自然の原理に選択的に人の原理を適用するのなら、その部分は最後まで人の原理を適用するしかないと思う。

行為と快感情 2自己肯定感と自尊心

自己肯定感とは長所も短所も含めてありのままの自分を受け入れることだ。世界は自分を受け入れて当然という感覚、認識世界で言うと、世界の中心は自分だ、という感覚のことだ。 だから他人のことがあまり気にならない。自己肯定感が低いと、外界を大きく感じてしまい、独り相撲を取って消耗していく。具体的には、自分に価値があることを過剰に証明しようとして過剰な他者承認を求める。

自己肯定感の低さの原因は侵害経験の深刻さに依る。

大切にされた経験を通して自分を大切にすることができるのだ。


自尊心とは、自分には尊厳があると信じられることだ。やましいことはしていないと自分に胸を張れることが尊厳を生み出す。具体的には、損得を超えて生きてきた、仲間のために生きてきたという気持ちだ。


私見によれば共感とは相手の中に自分を見る行為だ。自己肯定感が低くて自分を大切にできなければ相手の中に大切な自分を見ることができない。故に相手を大切にできない。つまり関係(利他)を大切にできない。残る価値は損得(利己)のみだ。故に自ずと自尊心も低くなる。


自己肯定感を変えるのは難しい。なぜなら自分を大切にする方法が具体的にはよく分からないからだ。しかし自尊心は自己肯定感に比べると操作し易い。なぜなら尊厳を生み出す行為が想像しやすいからだ。具体的には、大切な人たちを助ければいい。しかし自尊心の低い人が大切な人たちを大切にしようとするのだから、当然覚悟を決めなければできない。


覚悟を決めて仲間を助けていけば、自分に胸を張れるようになる。仲間からも信頼される。それらは当然自尊心を高める。自尊心は自己肯定感に影響を与える。


行為と快感情 2自己肯定感と自尊心

自己肯定感とは長所も短所も含めてありのままの自分を受け入れることだ。世界は自分を受け入れて当然という感覚、認識世界で言うと、世界の中心は自分だ、という感覚のことだ。 だから他人のことがあまり気にならない。自己肯定感が低いと、外界を大きく感じてしまい、独り相撲を取って消耗していく。具体的には、自分に価値があることを過剰に証明しようとして過剰な他者承認を求める。
自己肯定感の低さの原因は侵害経験の深刻さに依る。
大切にされた経験を通して自分を大切にすることができるのだ。

自尊心とは、自分には尊厳があると信じられることだ。やましいことはしていないと自分に胸を張れることが尊厳を生み出す。具体的には、損得を超えて生きてきた、仲間のために生きてきたという気持ちだ。

私見によれば共感とは相手の中に自分を見る行為だ。自己肯定感が低くて自分を大切にできなければ相手の中に大切な自分を見ることができない。故に相手を大切にできない。つまり関係(利他)を大切にできない。残る価値は損得(利己)のみだ。故に自ずと自尊心も低くなる。

自己肯定感を変えるのは難しい。なぜなら自分を大切にする方法が具体的にはよく分からないからだ。しかし自尊心は自己肯定感に比べると操作し易い。なぜなら尊厳を生み出す行為が想像しやすいからだ。具体的には、大切な人たちを助ければいい。しかし自尊心の低い人が大切な人たちを大切にしようとするのだから、当然覚悟を決めなければできない。

覚悟を決めて仲間を助けていけば、自分に胸を張れるようになる。仲間からも信頼される。それらは当然自尊心を高める。自尊心は自己肯定感に影響を与える。

競争することの意味 追加 劣等感の由来

劣等感の獲得由来は何か。能力で劣っていることを事前に察知することによって無駄な競争に参加せず、体力を温存することが獲得由来だと思う。初めから負けると分かっている競争に参加して体力を消耗し、事によっては怪我まで負ってしまう。そのようなリスクを避け、自分がより勝てる可能性の競争に体力を温存しておく。

例えば1番条件の良い餌場を争うのではなく、2番目、3番目の餌場を争う。1番目で強い個体と争い怪我でも負おうものなら3番目の餌場さえおぼつかない。

自分より明らかに能力のある個体と争わないために添付された感情が劣等感だと思う。


現代の日常にそのような環境はない。

競争することの意味 追加 劣等感の由来

劣等感の獲得由来は何か。能力で劣っていることを事前に察知することによって無駄な競争に参加せず、体力を温存することが獲得由来だと思う。初めから負けると分かっている競争に参加して体力を消耗し、事によっては怪我まで負ってしまう。そのようなリスクを避け、自分がより勝てる可能性の競争に体力を温存しておく。
例えば1番条件の良い餌場を争うのではなく、2番目、3番目の餌場を争う。1番目で強い個体と争い怪我でも負おうものなら3番目の餌場さえおぼつかない。
自分より明らかに能力のある個体と争わないために添付された感情が劣等感だと思う。

現代の日常にそのような環境はない。

遺伝子と個体 1

稲や小麦は世界中で作付けされている。 それはコメやコムギが種として繁栄していると言っていいのだろうか。 人を使って個体数や生息領域を拡大していると言えるのだろうか。  そしてその数の増大はコメやコムギにとって望ましいことなのだろうか。 


豚や鶏は世界の多くの地域で飼育されている。 それはブタやニワトリが種として繁栄していると言えるのだろうか。  出産のための母豚は妊娠後期から出産・授乳期を通じて身動きの取れない狭いマスに閉じ込めらる。 ブロイラーは狭いケージに密飼いされる。 それは彼らにとって望ましいことなのだろうか。 


擬人的に言えば、遺伝子にとっては数が増えることが至上価値である。 なので遺伝子から見れば現在のブタやニワトリの増殖は価値のあることだ。遺伝子の欲求を満たしている。 だが個々の豚や鶏にとって今の状態は生き地獄と言っていいだろう。 数が増えているのだからと言ってその生の質に価値があるとはとても思えない。 個々の生き物から見れば数よりも生の質の方が大切だ。つまり個々の豚や鶏は今のような生を望んでいないだろう。


 食料が豊作の年にネズミは可能な限り数を増やす。 ネズミと言う豊富な餌に導かれてキツネも可能な限り数を増やす。 数の多くなったキツネにネズミが食べられて数を減らせば、 餌のなくなったキツネも出産数を減らしたり餓死をして数を減らす。 ネズミもキツネも生の質を担保するために出産する子供の数を減らそうとはしない。

自然の世界では生の質より数を優先している。


では自然の世界では生の質より数を優先して過酷な生を送っているからといって、人が故意に生き物を過酷な生に追いやって良いのだろうか。 


ところで自然の中に人の価値を持ち込むことができるのか。 例えばヒューマニズムという価値を食物連鎖の中のどの生き物に適用すればいいのか。 ある生き物を大切にすれば必ず別の生き物にしわ寄せが行く。 つまり人の原理と自然の原理は別なのだ。 人の原理を自然に適応してはならない。 さらに、人が"これは正しい"と思える自然の原理をサポートすることも慎重でなければならない。 なぜなら自然は非常に緊密に連携し合ってバランスを保っているので、良かれと思った介入が予想外の結果を引き起こすからだ。

自然の原理を尊重するために人は基本的には自然に介入をしないのが良い。


ではバッファゾーンではどう振る舞えばいいのだろう。例えば近所の公園や家の前の道路、部屋の中などだ。人が造り出した場なのだから全て人の原理を貫徹していいのだろうか。人から見れば公園は人が作り出した人工世界だが、自然はそんな事には構わない。 日が照って、雨が降り、四季が訪れて変化し続けている。 その変化に応じて菌類や植物や動物が自分たちの世界を作り出している。 剪定をしたり、雑草を抜いたり、セミ捕りをすると言う人の原理とは別に、自然の原理が息づいているのだ。 部屋にも、ゴキブリやカやダニを殺すという人の原理とは別に、色んな生き物が息づいて自然の原理を体現している。 つまりバッファゾーンでは2層構造になっているのだ。 であるならば人の世界では人の原理を貫徹して良いが、自然の世界では自然の原理を尊重するのがいいと思う。


養豚場の豚や養鶏場の鶏は人の世界にある 。であるなら人の原理を適用していい。 つまり良心が痛むような飼い方はしないということだ。 豚や鶏の生の質がここまで過酷なのはただ単に安い肉を生産するためだ。 つまり消費者が家畜の生の質より安さを優先するからだ。