imakokoparadise’s diary

科学的エビデンスを最重視はしません。 エビデンスがなくとも論理的に適当であればそれを正しいと仮定して進む。私の目的は、得た結論を人生に適用して人生をより良くすること。エビデンスがないからと言って止まってられない。 目的は、皆の不安を無くすこと。

遺伝子と個体 1

稲や小麦は世界中で作付けされている。 それはコメやコムギが種として繁栄していると言っていいのだろうか。 人を使って個体数や生息領域を拡大していると言えるのだろうか。  そしてその数の増大はコメやコムギにとって望ましいことなのだろうか。 


豚や鶏は世界の多くの地域で飼育されている。 それはブタやニワトリが種として繁栄していると言えるのだろうか。  出産のための母豚は妊娠後期から出産・授乳期を通じて身動きの取れない狭いマスに閉じ込めらる。 ブロイラーは狭いケージに密飼いされる。 それは彼らにとって望ましいことなのだろうか。 


擬人的に言えば、遺伝子にとっては数が増えることが至上価値である。 なので遺伝子から見れば現在のブタやニワトリの増殖は価値のあることだ。遺伝子の欲求を満たしている。 だが個々の豚や鶏にとって今の状態は生き地獄と言っていいだろう。 数が増えているのだからと言ってその生の質に価値があるとはとても思えない。 個々の生き物から見れば数よりも生の質の方が大切だ。つまり個々の豚や鶏は今のような生を望んでいないだろう。


 食料が豊作の年にネズミは可能な限り数を増やす。 ネズミと言う豊富な餌に導かれてキツネも可能な限り数を増やす。 数の多くなったキツネにネズミが食べられて数を減らせば、 餌のなくなったキツネも出産数を減らしたり餓死をして数を減らす。 ネズミもキツネも生の質を担保するために出産する子供の数を減らそうとはしない。

自然の世界では生の質より数を優先している。


では自然の世界では生の質より数を優先して過酷な生を送っているからといって、人が故意に生き物を過酷な生に追いやって良いのだろうか。 


ところで自然の中に人の価値を持ち込むことができるのか。 例えばヒューマニズムという価値を食物連鎖の中のどの生き物に適用すればいいのか。 ある生き物を大切にすれば必ず別の生き物にしわ寄せが行く。 つまり人の原理と自然の原理は別なのだ。 人の原理を自然に適応してはならない。 さらに、人が"これは正しい"と思える自然の原理をサポートすることも慎重でなければならない。 なぜなら自然は非常に緊密に連携し合ってバランスを保っているので、良かれと思った介入が予想外の結果を引き起こすからだ。

自然の原理を尊重するために人は基本的には自然に介入をしないのが良い。


ではバッファゾーンではどう振る舞えばいいのだろう。例えば近所の公園や家の前の道路、部屋の中などだ。人が造り出した場なのだから全て人の原理を貫徹していいのだろうか。人から見れば公園は人が作り出した人工世界だが、自然はそんな事には構わない。 日が照って、雨が降り、四季が訪れて変化し続けている。 その変化に応じて菌類や植物や動物が自分たちの世界を作り出している。 剪定をしたり、雑草を抜いたり、セミ捕りをすると言う人の原理とは別に、自然の原理が息づいているのだ。 部屋にも、ゴキブリやカやダニを殺すという人の原理とは別に、色んな生き物が息づいて自然の原理を体現している。 つまりバッファゾーンでは2層構造になっているのだ。 であるならば人の世界では人の原理を貫徹して良いが、自然の世界では自然の原理を尊重するのがいいと思う。


養豚場の豚や養鶏場の鶏は人の世界にある 。であるなら人の原理を適用していい。 つまり良心が痛むような飼い方はしないということだ。 豚や鶏の生の質がここまで過酷なのはただ単に安い肉を生産するためだ。 つまり消費者が家畜の生の質より安さを優先するからだ。


遺伝子と個体 1

稲や小麦は世界中で作付けされている。 それはコメやコムギが種として繁栄していると言っていいのだろうか。 人を使って個体数や生息領域を拡大していると言えるのだろうか。 そしてその数の増大はコメやコムギにとって望ましいことなのだろうか。

豚や鶏は世界の多くの地域で飼育されている。 それはブタやニワトリが種として繁栄していると言えるのだろうか。 出産のための母豚は妊娠後期から出産・授乳期を通じて身動きの取れない狭いマスに閉じ込めらる。 ブロイラーは狭いケージに密飼いされる。 それは彼らにとって望ましいことなのだろうか。

擬人的に言えば、遺伝子にとっては数が増えることが至上価値である。 なので遺伝子から見れば現在のブタやニワトリの増殖は価値のあることだ。遺伝子の欲求を満たしている。 だが個々の豚や鶏にとって今の状態は生き地獄と言っていいだろう。 数が増えているのだからと言ってその生の質に価値があるとはとても思えない。 個々の生き物から見れば数よりも生の質の方が大切だ。つまり個々の豚や鶏は今のような生を望んでいないだろう。

食料が豊作の年にネズミは可能な限り数を増やす。 ネズミと言う豊富な餌に導かれてキツネも可能な限り数を増やす。 数の多くなったキツネにネズミが食べられて数を減らせば、 餌のなくなったキツネも出産数を減らしたり餓死をして数を減らす。 ネズミもキツネも生の質を担保するために出産する子供の数を減らそうとはしない。
自然の世界では生の質より数を優先している。

では自然の世界では生の質より数を優先して過酷な生を送っているからといって、人が故意に生き物を過酷な生に追いやって良いのだろうか。

ところで自然の中に人の価値を持ち込むことができるのか。 例えばヒューマニズムという価値を食物連鎖の中のどの生き物に適用すればいいのか。 ある生き物を大切にすれば必ず別の生き物にしわ寄せが行く。 つまり人の原理と自然の原理は別なのだ。 人の原理を自然に適応してはならない。 さらに、人が"これは正しい"と思える自然の原理をサポートすることも慎重でなければならない。 なぜなら自然は非常に緊密に連携し合ってバランスを保っているので、良かれと思った介入が予想外の結果を引き起こすからだ。
自然の原理を尊重するために人は基本的には自然に介入をしないのが良い。

ではバッファゾーンではどう振る舞えばいいのだろう。例えば近所の公園や家の前の道路、部屋の中などだ。人が造り出した場なのだから全て人の原理を貫徹していいのだろうか。人から見れば公園は人が作り出した人工世界だが、自然はそんな事には構わない。 日が照って、雨が降り、四季が訪れて変化し続けている。 その変化に応じて菌類や植物や動物が自分たちの世界を作り出している。 剪定をしたり、雑草を抜いたり、セミ捕りをすると言う人の原理とは別に、自然の原理が息づいているのだ。 部屋にも、ゴキブリやカやダニを殺すという人の原理とは別に、色んな生き物が息づいて自然の原理を体現している。 つまりバッファゾーンでは2層構造になっているのだ。 であるならば人の世界では人の原理を貫徹して良いが、自然の世界では自然の原理を尊重するのがいいと思う。

養豚場の豚や養鶏場の鶏は人の世界にある 。であるなら人の原理を適用していい。 つまり良心が痛むような飼い方はしないということだ。 豚や鶏の生の質がここまで過酷なのはただ単に安い肉を生産するためだ。 つまり消費者が家畜の生の質より安さを優先するからだ。

競争するということ

競争が発生する理由は資源が限定されているからだ。 これがすべての理由である。 

ようやく手に入れた貴重な食料、安全な睡眠場所、交尾相手。

ヒトはその発生以前から、限られた資源を求めて生存をかけて競争してきた。競争は人の習い性になっている。


現代でも人は競争好きだ。勝つことによって優越感を感じていたい。勝つことによって他者からの承認を得たい。

つまり社会や自分に対して力の存在を証明したい。自分の価値を証明したい。他人と比べて自分が優れていることを証明したいのだ。


競争について


例えばウサインボルトと私が1年後に100 M 走で勝負しようぜ と約束する。 私は1年間仕事を続けながら毎日努力を積み重ねる。 1年後私はボルトに負ける。 その負けは私にとって何を意味しているのだろう。一年間の私の努力は無駄だったのか、 練習方法は間違っていたのか。


それまでの人生で、100 m 走にかけてきた練習時間も違う、費やしたお金も違う、競技の経験も違う。年齢も違う。育った家庭環境も周辺環境も違う。まったく前提が違っている時にある能力を比べてみてもその勝敗は両者にとって何も証明しない。 獲得した能力は偶然の結果だからだ。

私がボルトに負けたこと自体が何かを意味しないし、競争のために費やした努力を無効にもしない。当たり前だが私の一切の価値を減じない。

勝敗によって明示されたある能力の差については、素直に認めればいい。資源が限定されていれば敗者はその資源にありつけない。 


実際には現代の多くの競争には資源の制限がない。 その瞬間で見れば資源が制限されているように見える場合も、冷静に長期的に見れば資源は制限されていない。人生の夢への到達方法は決して一つではない。


私たちが日頃やっているのは資源の制限のない競争だが、より重要なのは日常的に何気なくやってしまう他者との仮想の競争だ。

実際に競争するのではないが、心の中で仮想の競争をして他人と比べてしまう。そして優越感を感じたり劣等感に苛まれたりする。ところがその勝敗自体はそもそも何も証明しないのだ。

資源の制限のない競争をお遊びでするのは良いが、負けたことによって劣等感を抱くのは自傷行為である。


ただし以下のような競争なら意味を持つと思う。

一週間後のタイムを0.1秒あげる目標を立てる。 そのための練習方法を色々考えて実践する。 一週間後タイムを計る。 目標を達成できれば自分との競争に勝ったと考えるのだ。 

ボルトとの競争も、自分との競争の中の通過点に過ぎず、その後も目標を決めてタイムを上げていく。

本来好きなことであればこういう態度になると思う。ある時点で誰かと競争をして勝敗が決まったとしても、その結果にかかわらずその後もその道を進んでいくだろう。


要約すれば、獲得した能力は偶然の結果である。しかし人はその能力で社会の中を生きていかなければならない。だとしても競争の勝敗自体には意味がない。故に敗けて劣等感を抱くのは自傷行為である。勝って優越感を抱くのはお門違いである。

競争するということ

競争が発生する理由は資源が限定されているからだ。 これがすべての理由である。
ようやく手に入れた貴重な食料、安全な睡眠場所、交尾相手。
ヒトはその発生以前から、限られた資源を求めて生存をかけて競争してきた。競争は人の習い性になっている。

現代でも人は競争好きだ。勝つことによって優越感を感じていたい。勝つことによって他者からの承認を得たい。
つまり社会や自分に対して力の存在を証明したい。自分の価値を証明したい。他人と比べて自分が優れていることを証明したいのだ。

競争について

例えばウサインボルトと私が1年後に100 M 走で勝負しようぜ と約束する。 私は1年間仕事を続けながら毎日努力を積み重ねる。 1年後私はボルトに負ける。 その負けは私にとって何を意味しているのだろう。一年間の私の努力は無駄だったのか、 練習方法は間違っていたのか。

それまでの人生で、100 m 走にかけてきた練習時間も違う、費やしたお金も違う、競技の経験も違う。年齢も違う。育った家庭環境も周辺環境も違う。まったく前提が違っている時にある能力を比べてみてもその勝敗は両者にとって何も証明しない。 獲得した能力は偶然の結果だからだ。
私がボルトに負けたこと自体が何かを意味しないし、競争のために費やした努力を無効にもしない。当たり前だが私の一切の価値を減じない。
勝敗によって明示されたある能力の差については、素直に認めればいい。資源が限定されていれば敗者はその資源にありつけない。

実際には現代の多くの競争には資源の制限がない。 その瞬間で見れば資源が制限されているように見える場合も、冷静に長期的に見れば資源は制限されていない。人生の夢への到達方法は決して一つではない。

私たちが日頃やっているのは資源の制限のない競争だが、より重要なのは日常的に何気なくやってしまう他者との仮想の競争だ。
実際に競争するのではないが、心の中で仮想の競争をして他人と比べてしまう。そして優越感を感じたり劣等感に苛まれたりする。ところがその勝敗自体はそもそも何も証明しないのだ。
資源の制限のない競争をお遊びでするのは良いが、負けたことによって劣等感を抱くのは自傷行為である。

ただし以下のような競争なら意味を持つと思う。
一週間後のタイムを0.1秒あげる目標を立てる。 そのための練習方法を色々考えて実践する。 一週間後タイムを計る。 目標を達成できれば自分との競争に勝ったと考えるのだ。
ボルトとの競争も、自分との競争の中の通過点に過ぎず、その後も目標を決めてタイムを上げていく。
本来好きなことであればこういう態度になると思う。ある時点で誰かと競争をして勝敗が決まったとしても、その結果にかかわらずその後もその道を進んでいくだろう。

要約すれば、獲得した能力は偶然の結果である。しかし人はその能力で社会の中を生きていかなければならない。だとしても競争の勝敗自体には意味がない。故に敗けて劣等感を抱くのは自傷行為である。勝って優越感を抱くのはお門違いである。

行為と快感情 1自尊心の高め方

自尊心とは自分には尊厳があると信じれる心のこととする




他者がいない世界で自分の責任を引き受ける、ということはあり得るのか  


ある人が誰も知らない山奥にきのこを取りに行き、全てを自分で消費したら、そこに損や得は生じるのか 


人間の行為は最終的に快を目的としている。 そういう視点から見ればすべての行為は快の為に手間を積み上げ、快を消費すること、となる。 その行為を一人ですることもあれば複数人ですることもある。 自尊心の危機は複数人で手間を積み上げ、そして消費する時に生じる。


何か一つのことを皆で達成する時、 そのための資源を皆で出し合わなければならない。  皆とは2人の時もあるし70億人の時もある。  資源とは時間・労力・お金などのことだ。  そして一つのことを達成した時、その成果を皆で分配する。快を享受する。


ここで問題なのは 一人当たりに課せられた資源がどのくらいなのか、 また一人あたりに割り当てられる成果がどのぐらいなのか、 が明瞭ではないことだ。 また全体を見渡せる人がいないか、いたとしても少数であることが、資源や成果の配分を難しくする。


最初の自尊心の危機は、資源を出し惜しみしてしまうことだ。 資源配分の曖昧なことをいいことに自分の割り当てから逃げようとする。 

世に言われる格言、 目の前のことから逃げない、自分の人生を引き受ける、とはこの部分のことを言っている。  


2番目の、そして最後の自尊心の危機は、割り当てられた成果以上のものまで手をつけようとすることだ。  つまり成果の配分量が不明瞭な上に、 全体を見渡せる人が少ないのをいいことに、他人の成果まで掠め取ろうとする。世に言う、欲深い、姑息な人のことだ。


つまり、快を得るため皆で集まって共同作業つまり作業分担をし、その結果快が創造され、その快を皆で共有つまり分割する。 このとき、作業分担と快分割のバランスを自分に有利に崩す。これが自尊心を低くするすべての原因だ。


資源の総量、 成果の総量に値段が付いていれば割り算もしやすいが、 そうでなければおおよその割り算しかできない 。 また分配する相手が成果の総量を知らないかもしれない。  そういう時こそ資源と成果の割り算を慎重にしなければならない。  この時にどう振る舞うかで、後ろめたい気持ちのない世界に住むことができる。それが自尊心を高めることになる。


要約すれば、全ての行為は快を目的としている。 それを一人で実行することもあれば複数人で協力することもある。 一人で実行した時にはそこに損も得も発生しない。 全てを自分が引き受けるしかないからだ。 複数人で実行した時に資源と成果の配分問題が起こり、損得感情に悩まされることになる。ここでどう振る舞うかが自尊心に決定的な影響を与える。つまり人生の生きやすさに関わってくる。


人を否定的に評価する言葉は 能力評価(つまり他人との比較)を除けば、他人に損を押し付け、他人の得を掠め取る行為に関わる言葉に収斂されると思う。人がなし得る悪行とは所詮自分の損得に関わることしかないのだろう。

行為と快感情 1自尊心の高め方

自尊心とは自分には尊厳があると信じれる心のこととする



他者がいない世界で自分の責任を引き受ける、ということはあり得るのか

ある人が誰も知らない山奥にきのこを取りに行き、全てを自分で消費したら、そこに損や得は生じるのか

人間の行為は最終的に快を目的としている。 そういう視点から見ればすべての行為は快の為に手間を積み上げ、快を消費すること、となる。 その行為を一人ですることもあれば複数人ですることもある。 自尊心の危機は複数人で手間を積み上げ、そして消費する時に生じる。

何か一つのことを皆で達成する時、 そのための資源を皆で出し合わなければならない。 皆とは2人の時もあるし70億人の時もある。 資源とは時間・労力・お金などのことだ。 そして一つのことを達成した時、その成果を皆で分配する。快を享受する。

ここで問題なのは 一人当たりに課せられた資源がどのくらいなのか、 また一人あたりに割り当てられる成果がどのぐらいなのか、 が明瞭ではないことだ。 また全体を見渡せる人がいないか、いたとしても少数であることが、資源や成果の配分を難しくする。

最初の自尊心の危機は、資源を出し惜しみしてしまうことだ。 資源配分の曖昧なことをいいことに自分の割り当てから逃げようとする。
世に言われる格言、 目の前のことから逃げない、自分の人生を引き受ける、とはこの部分のことを言っている。

2番目の、そして最後の自尊心の危機は、割り当てられた成果以上のものまで手をつけようとすることだ。 つまり成果の配分量が不明瞭な上に、 全体を見渡せる人が少ないのをいいことに、他人の成果まで掠め取ろうとする。世に言う、欲深い、姑息な人のことだ。

つまり、快を得るため皆で集まって共同作業つまり作業分担をし、その結果快が創造され、その快を皆で共有つまり分割する。 このとき、作業分担と快分割のバランスを自分に有利に崩す。これが自尊心を低くするすべての原因だ。

資源の総量、 成果の総量に値段が付いていれば割り算もしやすいが、 そうでなければおおよその割り算しかできない 。 また分配する相手が成果の総量を知らないかもしれない。 そういう時こそ資源と成果の割り算を慎重にしなければならない。 この時にどう振る舞うかで、後ろめたい気持ちのない世界に住むことができる。それが自尊心を高めることになる。

要約すれば、全ての行為は快を目的としている。 それを一人で実行することもあれば複数人で協力することもある。 一人で実行した時にはそこに損も得も発生しない。 全てを自分が引き受けるしかないからだ。 複数人で実行した時に資源と成果の配分問題が起こり、損得感情に悩まされることになる。ここでどう振る舞うかが自尊心に決定的な影響を与える。つまり人生の生きやすさに関わってくる。

人を否定的に評価する言葉は 能力評価(つまり他人との比較)を除けば、他人に損を押し付け、他人の得を掠め取る行為に関わる言葉に収斂されると思う。人がなし得る悪行とは所詮自分の損得に関わることしかないのだろう。

同情と共感

困難な状況に陥ったとき、人から、可哀想、と思われることに多少の抵抗感がある。  可哀想とは同情ということだと思うが、可哀想と思った時、知らず知らずのうちに自分とは別世界の存在だと対象を見ているからだと思う。自分は安全な場所に立っている。 その気持ちを感じてしまうから、可哀想、と言われることに抵抗感があるのだと思う。

困難な状況に陥った人を見たとき、そこに勝手の自分を見ることができれば、共感したと言えると思う。 同じ経験をしている仲間として見ることができる。 更には、たとえ同じ経験をしていなくても、勝手の自分の経験から相手の辛さや悲しさを感じることができればやはり仲間として見ることができる。 

色々な経験をするほどに仲間が増えていくのだと思う。


同情と共感

困難な状況に陥ったとき、人から、可哀想、と思われることに多少の抵抗感がある。 可哀想とは同情ということだと思うが、可哀想と思った時、知らず知らずのうちに自分とは別世界の存在だと対象を見ているからだと思う。自分は安全な場所に立っている。 その気持ちを感じてしまうから、可哀想、と言われることに抵抗感があるのだと思う。
困難な状況に陥った人を見たとき、そこに勝手の自分を見ることができれば、共感したと言えると思う。 同じ経験をしている仲間として見ることができる。 更には、たとえ同じ経験をしていなくても、勝手の自分の経験から相手の辛さや悲しさを感じることができればやはり仲間として見ることができる。
色々な経験をするほどに仲間が増えていくのだと思う。

ジェイソン モロニー

先日バンタム級井上尚弥と対戦したオーストラリア出身のジェイソンモロニーのしゃべっている動画を見つけた。

最初の1分30秒までしか見ていないがモロニーのイメージが全く変わった。 

私は日本人なので井上尚弥の対戦動画はいくつも見てきた。  対戦後のインタビューも見たことがある。  なので自分なりの井上尚弥像を作り上げてきた。  対してモロニーのイメージは全くなかった。  

そのような状態でタイトルマッチを見た。  当然井上尚弥に親近感を覚え、対するモロニーには敵と言う感覚が強かった。  


その後この動画を見た

https://youtu.be/OS6tgECeYGI


昨今流行りの過剰な演出としての"お前なんかクソ野郎だ”という雰囲気は一切なく、 穏やかな表情で、自分を過剰演出することもなく誠実に話していた。

本当に強いとはこういう人のことを言うのだろう。

私は感動した。

ジェイソン モロニー

先日バンタム級井上尚弥と対戦したオーストラリア出身のジェイソンモロニーのしゃべっている動画を見つけた。
最初の1分30秒までしか見ていないがモロニーのイメージが全く変わった。
私は日本人なので井上尚弥の対戦動画はいくつも見てきた。 対戦後のインタビューも見たことがある。 なので自分なりの井上尚弥像を作り上げてきた。 対してモロニーのイメージは全くなかった。
そのような状態でタイトルマッチを見た。 当然井上尚弥に親近感を覚え、対するモロニーには敵と言う感覚が強かった。

その後この動画を見た
https://youtu.be/OS6tgECeYGI

昨今流行りの過剰な演出としての"お前なんかクソ野郎だ”という雰囲気は一切なく、 穏やかな表情で、自分を過剰演出することもなく誠実に話していた。
本当に強いとはこういう人のことを言うのだろう。
私は感動した。